実家 エッセー
実家
最近、「実家」という言葉が気にかかっている。
若い男性が平気な顔で、「実家に行ってきた」とか、「実家で過ごしていた」とか言っている。
明らかに未婚と分かる女性の中にも、同じような使い方をしている人がいる。
かのキムタクも、ヤクマル君も、福留さんまでが言っていたなあ。
「実家」とは、結婚をして家を出た女性が、それまで住んでいた家をさす時に使う言葉である。
「女は三界に家なし」なんて言われていた時代があるが、「実家」は、そういう時代から、新しい家庭を持った既婚の女性の生家や、両親の住む家をさす言葉だったのだ。
もしかしたら、結婚をして家を出たが、妻の姓を名のった男性も使えたかもしれない。
つまり入り婿となった男性の場合である。
したがって、「実家」という言葉は、家を出てアパートに暮らしていても、未婚の女性や大方の男性の言葉ではないのである。
男性であっても、「妻の実家で過ごした」などという使い方は可能である。
こんなふうに、「実家」の意味がはきちがえられるようになったのには、戦後に施行された「家長制度の廃止」が大きく関与しているのではないかと思える。
家は、昔は本家と分家に分かれていた。
結婚をして家を出た男性は、「分家」を構えたのである。
しかし、家長制度が廃止されて五十年も経った現代では、結婚したからといって、「分家を構えた」などとは誰も認識しないだろう。
「分家」という言葉は、過去の歴史を話すときか、六十歳代以上の人でなければ通用しないし、若い世代においてはなきにひとしい。
それでも「実家」という言葉を若い世代が知っているのは、彼らの母親が使っているからで、しかもその意味を勝手に解釈して使っているのだろう。
では、結婚して家を出た男性は、それまで住んでいた家を何と表現したらいいのだろう。
本来なら「本家に行ってきた」とか、「生家に帰ってきた」とか言うべきではある。
しかし、「分家」同様、「本家」もまた現代にあっては封建時代を描く小説の中の言葉である。
せいぜい「生家」という言葉しか残されていないような気がする。
でなければ、代替として、「両親のところ」とか、「兄貴の家」とか工夫するしかない。
あるいは、「里で過ごす」という言い方も可能かもしれない。
時代の情勢によって言葉の意味が混乱してきた時、それを指摘したり、矯正したりするのは、社会の中では誰が担っているのだろう。
国語審議会とか国語学者だろうか?
余談だが、離婚した女性が生家に戻った場合は、「実家に戻った」である。
しかし、離婚しても生家に戻らずに暮らしている女性は、やはり、「実家」とは言わずに、「生家」を使うべきではないだろうか。
若い男性が、未婚、既婚にかかわらず、平気で「実家」を口にしているのを見かけると、どうも女性化した男性を見ているようで違和感がある。
また、未婚の女性が平気で「実家」という言葉を使っているのに出会うと、何かすでに、「結婚に似た経験をもっている女です」と、暗にほのめかされているようで、こちらとしては居心地が非常に悪いのである。
最近、「実家」という言葉が気にかかっている。
若い男性が平気な顔で、「実家に行ってきた」とか、「実家で過ごしていた」とか言っている。
明らかに未婚と分かる女性の中にも、同じような使い方をしている人がいる。
かのキムタクも、ヤクマル君も、福留さんまでが言っていたなあ。
「実家」とは、結婚をして家を出た女性が、それまで住んでいた家をさす時に使う言葉である。
「女は三界に家なし」なんて言われていた時代があるが、「実家」は、そういう時代から、新しい家庭を持った既婚の女性の生家や、両親の住む家をさす言葉だったのだ。
もしかしたら、結婚をして家を出たが、妻の姓を名のった男性も使えたかもしれない。
つまり入り婿となった男性の場合である。
したがって、「実家」という言葉は、家を出てアパートに暮らしていても、未婚の女性や大方の男性の言葉ではないのである。
男性であっても、「妻の実家で過ごした」などという使い方は可能である。
こんなふうに、「実家」の意味がはきちがえられるようになったのには、戦後に施行された「家長制度の廃止」が大きく関与しているのではないかと思える。
家は、昔は本家と分家に分かれていた。
結婚をして家を出た男性は、「分家」を構えたのである。
しかし、家長制度が廃止されて五十年も経った現代では、結婚したからといって、「分家を構えた」などとは誰も認識しないだろう。
「分家」という言葉は、過去の歴史を話すときか、六十歳代以上の人でなければ通用しないし、若い世代においてはなきにひとしい。
それでも「実家」という言葉を若い世代が知っているのは、彼らの母親が使っているからで、しかもその意味を勝手に解釈して使っているのだろう。
では、結婚して家を出た男性は、それまで住んでいた家を何と表現したらいいのだろう。
本来なら「本家に行ってきた」とか、「生家に帰ってきた」とか言うべきではある。
しかし、「分家」同様、「本家」もまた現代にあっては封建時代を描く小説の中の言葉である。
せいぜい「生家」という言葉しか残されていないような気がする。
でなければ、代替として、「両親のところ」とか、「兄貴の家」とか工夫するしかない。
あるいは、「里で過ごす」という言い方も可能かもしれない。
時代の情勢によって言葉の意味が混乱してきた時、それを指摘したり、矯正したりするのは、社会の中では誰が担っているのだろう。
国語審議会とか国語学者だろうか?
余談だが、離婚した女性が生家に戻った場合は、「実家に戻った」である。
しかし、離婚しても生家に戻らずに暮らしている女性は、やはり、「実家」とは言わずに、「生家」を使うべきではないだろうか。
若い男性が、未婚、既婚にかかわらず、平気で「実家」を口にしているのを見かけると、どうも女性化した男性を見ているようで違和感がある。
また、未婚の女性が平気で「実家」という言葉を使っているのに出会うと、何かすでに、「結婚に似た経験をもっている女です」と、暗にほのめかされているようで、こちらとしては居心地が非常に悪いのである。