甘柿渋柿  エッセー

甘柿渋柿

 
生家の庭には大きな柿の木が二本あった。

どちらも富山柿である。

一本は屋敷内への入り口に。この木は血を這うような形をとってから立ち上がっているので登りやすく、子供のころはよく上り下りをして遊んだものだ。

もう一本は庭の奥のほうに。こちらには登れる子供は少なかった。高さは十数メートル、地面から直立しているのだ。

今は埋めてしまったが、この登れない柿の木のそばには井戸があり、風呂場もあった。

柿の木と井戸の間に縦横高さが三十センチくらいの大きな砥石があり、魚売りが来るとその大きな砥石で包丁を研いでは魚をさばいていた。

二本の柿の木は毎年たくさんの実をつけた。

富山柿は渋柿であるから、干し柿にするしかない。

だが今年はちょっと変化がある。

井戸端の渋柿である富山柿に、二年前、叔父が甘柿である次郎柿を接いだのだ。

接がれた次郎柿は、おそらく樹齢百年以上の磐石の根を誇る富山柿の根元から、ヒコバエのような枝を立て、今年になって三十個ほどの実をつけたのである。

食べてみると、本当に甘柿になっている。

こんなに簡単に甘柿ができることに驚いてしまった。

根元には甘柿をつけ、上の方には渋柿をつけている。

もしかしたらこの先ずっと甘柿を食べられるかもしれないと思うと、嬉しくなってくる。

しかし渋柿の大切さを忘れるわけにはいかない。

渋柿はかつて飢饉への備えとしては、すごく優秀な植物であったと思うのだ。

当たり外れの年があるとしても、手入れもせずにある程度の実は必ずつける。

干し柿にすれば保存がきくし、甘味の少なかった時代に喜ばれもしただろう。

だが、保存技術が発達し、世界中からの輸入が可能になり、食べるものが年中あふれているこの時代には、渋柿はあまりおよびがかからなくなってしまった。

田舎ではほとんど見向きもされなくなって、むしろ都会に住む人たちに喜ばれているような感がある。

それだって、ひと昔前のようには食べなくなっているだろう。

だがもしもテロや戦争、火山の噴火や大地震などの天災で、再び食糧に困る時代がやってこないとは言い切れない。

昨日のテレビでは、二〇〇二年から二〇〇五年までの間に、東海地震が起きると発表されていた。

現在のアフガニスタンのように、冬の寒さのうえにひもじさが重なる悲惨を考えれば、干し柿があったほうがどんなにいいかしれない。

車を走らせていると、この時期目立つのは枝もたわわに色づいた柿の実である。

見るからに秋らしい、美しい風景である。

飢饉への備えであったことを裏づけるかのように、山間部に入るほど柿の木が多い。

時折は廃屋の庭に、また、すっかり山に戻ってしまった開墾跡地に、樹木に囲まれて明るい実をともしている。

なかにはその昔、柿渋を採った豆柿もある。

柿渋など、今では個人で作る人などもういないだろうが、それでも切り倒されずに残っているのを見るのは、なんとなくほっとさせるものがある。

去年だったか一昨年だったか、会津に行った時に材になった柿の木を初めて見た。

材の中心部あたりが墨を流したように黒く、見るからに力強い材であった。

また、ここから一山、二山越えたあたりに「パーシモンカントリークラブ」というゴルフ場がある。

どうしてパーシモン(柿)なのだろうと思っていたが、今でこそゴルフクラブはカーボンやチタンが主流になったが、そもそもがパター用のクラブは柿の木で作られていたのだそうだ。

ほかには、余談になるかもしれないが、「シュガーパーシモン」というロックグループがある。

我が町と隣町に住む人たちで組んでいるユニットで、なかなかの力量を持っている。

「シュガーパーシモン」が、「砂糖のように甘い柿」を意味するのかどうかは分からない。

辞書で調べたところ、英語では「甘柿」「渋柿」という区別はなかったのだ。

おそらく、メンバーの誰かが佐藤で、誰かが大柿とかいう姓なのかもしれない。

干し柿が甘くなるのは、水溶性であったタンニンが乾燥によって閉じ込められ、渋さを感じなくなるからなのだそうだ。

冬の体調を整えるのにはもってこいの食べ物であるが、食べすぎると舌では感じなかったタンニンが腸のなかで戻って便秘をひきおこしたりもするから、一日一個くらいがよいだろう。
                   
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タグ: 甘柿 渋柿



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