2007/7/23

蜘蛛の子が散っていく様子は一度だけ見たことがある  カルト・宗教・犯罪

オウム真理教(の一部のアーレフ)から、「正悟師」の地位にあった杉浦兄弟が脱会したのこと、まず間違いなさそうです。
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>オウム真理教から杉浦茂(49)、杉浦実(45)の両最高幹部が脱会
>7月8日と22日付。
>現体制の方針に反発して脱会したとみられて
>新教団を設立した上祐史浩元代表(44)らに合流する動きはないという。
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毎日新聞も確認ということは、公安が認めた、つまり本人も公安に認めたということでしょう。
このことは、アーレフ代表の野田ブログにも出ている。不思議な事態です。
そして、末尾抄本のようなのが信者さんに流れているのも不思議な話。

だが、杉浦兄弟が、麻原さんへの帰依、憧れ、また裏腹の恐怖などを抜け出したかどうかは不明。だから一人オウムの場合も含めて、上祐派と合流したり、別の「分裂」に過ぎない可能性も残していよう。

まあ、何しても、2006年を過ぎた今年はそんな年。
麻原さんの映画はとっく終わっているのだから。
残るは腐敗と近親憎悪なのだから、

ああ、杉浦兄弟さんも、
それから前から言っているが上祐さん
それから、野田君
何故か頑張っている師の何人かの人

映画「生きる」あたり、見てね。
300円くらいで借りれるよ。
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最後の地獄は、二宮君や松本家ではないか、と不安。

それにしても、「自と他の区別」云々なぞ、自分も他人も機械も岩石も地球も、そして宇宙も「自然」の一部。
死ねばまあ原子、風になって、他の人や岩石、空気の一部に戻るのだから、というか生命体とて日々原子を入れ替えているのだから、そもそも意味のないことなんだ、ということを、改めていうようになったのですね。

で一方、それをやたら強調し、自己それぞれの責任を放棄し、「善と悪」を相対化して責任を曖昧にしたがるのが、まあ戦後の戦前回帰権力者が言い出した一億総懺悔理論であり、「ひかりの輪」なのでして、注意が必要。

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それら現役の方々に対して。

あなたらは、麻原さんの指示のもと、友人坂本一家を殺し、多くの人を殺し、私を殺そうとし、化学兵器サリンまで用いて無差別殺人をし、そして数百万人を殺そうとした人たち。
当時は知らなくても、今は知っている人たち。高弟が勝手にやったなどと耳をふさいで妄想をたくましくしても、それが偽りであることを実は知っている人たち。
それを忘れないでね。
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--抄本を転載--
もうじき脱会するカンカーレーヴァタ正悟師が脱会前にお別れの投稿をしてくれたのでお知らせ

自己の執着・他者への怒り K.Revata 07/07/11(水)
自己を認識するという働きがある限り他者も同時に想定される「自己」があることによって「他」が存在する。このように「自己」と「他」を別のものとしてとらえる働きによって自己の側には執着が、他者に対しては怒りが生じるのである
 これは、ダルマキールティの『プラマーナ・ヴァールティカ』にある一節です。わたしたちにとっては、初めて聞くような内容ではないため、ともすると「なるほど、その通りだね」と簡単に見過ごしてしまうかもしれません。

しかし、チベット仏教が繰り返し、菩提心を培うことの重要性を述べていることや、わたしたちの修行の最終の状態を「空と慈悲」、あるいは「慈悲と結びついた空性」といった表現をすることを思い出しながら、改めてこの一節を見てみますと、そこには大変重要な教えが語られていることに気づきます。
ここでダルマキールティは、わたしたちが「怒り」という感情を起こすのは、その相手を「他者」と認識しているからだと言っています。

例えば、わたしたちが誰かと論争しているとしましょう。初めこそ冷静に論理的に意見を交わしていたのですが、次第に熱を帯び、ついには互いの性格的な欠点に言及するところまで発展し、とうとう怒りをぶつけ合うようになってしまうなどということはままあることです。このようなとき、わたしたちの怒りは、「わたしと考えの違う他者」に対して生じています。

ではもし、この相手を「自分」と認識したらどうなるでしょう。相手の人を「もう一人の自分」と思い込んだり、もしくは「相手の言っていることは自分のもう一つの見解なのだ」と考えるのです。 試してみられたらいいですが、怒りが徐々に減っていったり、あるいは全く感じなくなってしまうことがわかるでしょう。

これは大変興味深いことです。この例では、自分と違う意見を言ってきたのが「他者」であったため、自分の考えを譲ることができず、最後怒りという感情が生起してしまったわけですが、もし同じ内容を自分が心の中で思いついたとしたら、そのことに怒りを持つ人はいないはずです。

「これはAだろう」「いや、Aはおかしい。Bではないか」と、心の中で自問自答するとしたら、いずれもが自分が思いついた見解ですから、そのどちらにも怒る人はいませんよね。
 この違いがどこから来ているかといえば、「自己」と「他」という認識からなのです。無智を根本とした愛著と邪悪心によって、わたしたちは苦しみの輪廻を繰り返しており、この相対的な感情を滅することが修行の最終目的、煩悩破壊であることをわたしたちは知っていますが、この「愛著と邪悪心」を「自己と他」という関係と結びつけて考えることはあまり意識されてこなかったように思います。

ではもし、すべての対象を自分と認識できるようになったらどうなるのでしょう。いえ、正確にはすべてが自分になってしまうのですから、他という概念を前提とした自分という言葉も適切ではありません。残念ながら、これを表す言葉はないようです。

 そして、自己に愛着し他に怒るということからすると、すべての対象に愛着するということになります。しかし、愛着というのは偏った特定の対象に対する執着を指す言葉ですから、本当にすべての魂に愛着したとしたらそれは愛着と言えるでしょうか。当然、愛あるいは慈悲という言葉を当てはめるのがふさわしいでしょう。ということは、執着と怒りといった相対的感情が少なくなればなるほど、「空と慈悲」に近づいていくことになります。(この考え方は、自我への執着を断ち切る、自我の放棄というものとは逆の論理になるのかもしれません。あるいはその形を変えたものかもしれません。ここは難しいところですから、今後熟考してみたいと思っています)
---以下略-----
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2007/7/27  22:40

投稿者:2ちゃんねら

ARAさん、そのセイラというのは、今もオウムに出入りしている人ですよ。。

しかしながら、ヘッドギアの技術がどこに
流れたか、知りたがるってのも、ちょっと気にかかりますわ。もしや、他で利用したがっているのでは?と勘ぐってしまいます

こちらにもお越しください
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/psy/1184855250/l50

オウムの元信者が騙されたーと
泣き喚く2ちゃんねるのスレッドです

2007/7/27  1:53

投稿者:セイラ

ARAさんへ

メールを送りました。
心を強く持っていてください。

2007/7/26  22:43

投稿者:キティ

誰か私の話を聞いてください。

2007/7/25  22:12

投稿者:キティ

私はなにも悪いことはしていません。

2007/7/25  13:23

投稿者:ARA

はじめまして。
オウム犯罪とよく似た創価学会犯罪の被害者です。
現在協力してくれる機関がまったくない中で、被害者達は必死になって手掛かりを探しています。

もしもご存知でしたら教えて頂きたいのですが、オウムが所持していた(開発していた)科学技術の多くが、摘発の前後に他の宗教団体に流れたという話を聞いたことがありますが、その件に関してご存じないでしょうか?

そしてもう一つですが、オウムのヘッドギアに関して、このような報告があります。
「ヘッドギアには、電子的に極めて高度なメカニズムがあり、ある一定の周期で周波数を徐々に変調させ、その変調作用をある一定のリズムで繰り返すことにより、装着した人間の脳波を、特定の脳波に収斂していく効果は確かにあった。」ヘッドギアの詳細なしくみ等についてご存じないでしょうか?
または他に教えて頂ける方はいらっしゃらないでしょうか?

お返事をどうかよろしくお願い致します。

http://www.geocities.jp/boxara/index.html

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