2006/12/14


1995年当時、「滝本さんは信者に甘すぎる」
なんて言う批判、また嫌がらせの手紙などをいくつももらった。
でも、自分は一番厳しいと思っています。

だって、最後の一人まで許さないから。
一人オウムも、宗教に理屈を求めることも許さないから。

下記は、一応は現役のM派信者さん?の白龍さんのブログについての、12月13日記事へのコメントの転載です。文字数が多すぎて、そちらでは反映していないかも。
http://blog.goo.ne.jp/hakuryuu_001
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どもっ、
私、白龍さんの言いたいことは分かるつもりではあります。

被害者、また殺した実行犯らのことを我が身として感じようとするとき、宗教的には自らのものとして深い謝罪とありがたさを感じる感覚、それはあるのだろうと。

でも、被害者らはそれを勿論求めていないし、実はそんな感覚を許しもしない。
・被害者の代わりに死ぬのでもないのに感謝を勝手にするな、
・死刑になる人の代替をするのでもないのに勝手なことを言うな、
という感想を持ちます。

それは「宗教者」の傲慢でしかない、となってしまうんじゃないかなぁと。

それは、上祐が今、「衆生を愛したい」なぞと、おぞましいことを言っているのと50歩100歩に感じられるものです。

豊田被告もいろいろ考えて反芻しているでしょうけれど、「日々重くなります」と述べて、決して表に出さないです。

それは、自らの考えなど言えるものではない、更に1カルパ150億年?の中で、今自分が生きていることそれ自体が実は奇跡だったんだ、ということを知ったから、だと感じます。

豊田被告と面会しましたが、自分として緊張の時間でした、彼は、死ぬということの重さをもう現実に感じていたから。

死んだ人とはもう会えないです。来年も再来年も、10年後も、100年後も、何万年、何十万年、何億年たっても。
今は生きている者として期待するのは、自分が死んだ後にあの世で会えるのかも、と思うことだけです。先に死んだ人とはいろいろ話したいなぁ、と思います。誰であっても。

井上被告に対する一審判決では「決して宗教に逃げることなく」と説示されています。それはそんな口上も感覚も許さないからです(裁判官がそこまで言うのは凄いことなんです)。

で、気がむかれたらとして勧めるのですが、

豊田君の友人で証人にも出た「さよならサイレントネイビー」の筆者が敢えてしたように、ビニール傘を持って、例えば林泰男被告だったら午前8時頃の中目黒始発東武動物公園行き電車に乗って、イメージしてみて欲しいのです。周囲の8人が苦しんで死に、さらに多くの人が苦しんだことを。

(林被告、少しはずるかったり危ない人であって欲しかったのですが、面会してみればいい青年なんです。参ったです。彼に対する一審死刑判決で異例のことに「およそ師を誤まるほど不幸なことはなく、この意味において、被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」とあるのは、そのとおりでした)。

少なくとも、第一上九の慰霊碑などにも行ってみるとか。あそこは何人も死んで、大きな電子レンジみたいので長時間かけて何人もが焼かれ、またご自身がキリストのイニシエーションをやったところでもありましょう。

ああ、鎌倉の円覚寺内、松嶺院内の墓には何人か元幹部を案内しました。坂本一家3人が眠っています。坂本はいい奴でした、同い年。

それぞれ、麻原さんの一審判決文に示される事件内容は必ずや把握して。
http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/trial/4-6.html

現実感覚と言うもの、それが戻ってきたときはあまりに重いです。

現実感覚を踏まえたうえでの思想でなければ、宗教でなければ、哲学でなければ、実は酷く病的だったり皮相なものだろうと思うのです。
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2006/12/14  22:18

投稿者:通りがかり

>現実感覚を踏まえたうえでの思想でなければ、宗 教でなければ、哲学でなければ、実は酷く病的だ ったり皮相なものだろうと思うのです。

 これはその通りだと思います。
 これから教団はM派がアーレフを脱会し、新教団を立ち上げるようです。 
 これから教団の人たちは厳しい現実をどんどん突きつけられるでしょう。
 そのプロセスにおいて、現実的な視点も持たざるを得ないと思います。
 彼らには早く幻想・妄想から脱却して、現実を直視して、これから何をすべきか真剣に考えていただきたいです。

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