2013/2/11

可愛い・可哀い、と思える対象  日常のこと

標題を書いていたら、「可哀い」という変換がないのだなあ、と気が付いた。誰の小説だったかな、しばしば読んだ記憶があるのだけれど。そんな熟語もあっていいと思うのだけれど。

若い頃は、赤ん坊さえもそうはかわいいと思えなかった。まあ末っ子であって、赤ん坊の少しの世話さえしたことがなかったからかもしれない。

子どもができてからか、赤ん坊がかわいくなり、そしてやたらかわいくなり、そのうちに他の赤ん坊もかわいく見えてきた。

子が長ずるにつれ、また仕事上、多くはないが少年と対することもあり、幼児のみならず、「子ども」全般がかわいくなってきた

一般事件の依頼者、たとえば人生に絡むことの依頼者が自分より年上が多かったのが、いつの間にか年下も多くなっていき、またカルト問題をやったりして、大人もかわいく思えてきた

同時に自分自身を随分と相対化して考えることができるように思え、しょもないやっちゃなあ、と思いながら自分をかわいく思えてきた。自己肯定感が、不安定なものから安定的になってきたというべきかもしれない

激しく批判し処罰など求めている対象の一人ひとりも、実は可愛い、可哀いと感じてもいる感覚。処罰や制裁は求めていても、のことです。

そのうちに、草花や、風や土や岩や、街並みや、地球も、星も可愛いと実感してくる感覚が、自分でもそうは不可思議でなくなってくる。

これらは食うには困らない程度の生活ができているからであり、それができない時は、容易に感じられないものかもしれない。

だが、少しの心理的な余裕があるときは誰でも大抵あるものであり、年を重ねるにつれ、こんな感覚があるのではないかなあ、とも思う。

なんかなあ、人類愛とか自然との一体感と言うのはそんなものかと。子ができようとできまいと、年を取ればそんな感じになってくるのかと。

ああ、「自分探し」を続けたがる傾向とか、破壊的カルトとかって、そんな「年を重ねることの効用」を阻害しているように思う。

可愛い、可哀いの対象がどこまで広がるか、大切なことかと。

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2013/2/12  20:28

投稿者:yoko

私か罪人と語り合える職業の人になりたかった、という感覚もそれなのかも。


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