2006/5/28

調整力の時代なのだ  その他

 先週は朝の5時頃から動き出して夜まで野外にいた。前半は強風、後半は雨に祟られてかなり消耗した。結構天候は悪かったのに日差しは強くて、首から上だけ真っ黒に日焼けした。まるで南の島にバカンスに行ったかのような状態だ。

 さて、特に最近仕事をしていて思うというか、感じる事がある。
人間の、特に大人にとって重要なのは、学力ではなく「調整力」なのだと。「なんじゃそりゃ?」と思う人も多かろう。なにせ適当に表現する単語が見あたらないので仮に「調整力」と表現しようと思う。
 つまり、現在は「ペーパー試験の成績がよい者=優秀な人材」と単純に評価する傾向が著しく強い。果たしてそれは正しいだろうか?と言う疑問である。
 この評価は、単純に記憶力があるのと、過去の実績から試験に出やすいところを選択し集中して覚えるテクニックを知っている、あるいは教えられているだけのことであろう。その結果、想像力とか発想力とか判定しにくい部分を評価することなく、「記憶力(とそのテクニック)=試験の成績=人物の優劣」といった、実に安直な評価基準が成立している。

 では、ペーパー試験の成績さえ良ければ、社会で仕事が出来るのか?それが「否」であることは、全うに仕事している大人なら実感として理解できると思う。

 最近の重大少年(馬鹿な話だが「少年」は年齢を特定する単語で、性別を限定しない、特に男女に拘って表記するときは「少年男子・少年女子」と書く)犯罪の多くがこの、試験の成績が良く、過去に目立った不良行動をおこした事がない、教師が「優秀な生徒」と評価していた児童によって起こされていることに注目したい。彼(彼女)らは確かに試験の結果は良かったろう、では優秀な人材だったろうか?何が足りなかったのか、あるいは欠如していたのか?教師は何故重大な問題が起きるまで、問題を排除出来なかったのか。

 それは評価の仕方が間違っているからだ。
 
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