「大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル52」
広島県会員
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石井 荘吉 (いしい しょうきち?)
(写真なし)
帝国教育会広島県会員。大正3(1914)年4月から5月の間、沼隈郡視学・毛利川象六の紹介によって入会。名簿では「藤吉」となっているが、おそらく「荘吉」の間違いと思われる。大正4(1915)年度の名簿にはその名を確認できるが、昭和8(1933)年度の名簿にはすでに確認できない。
?年生〜?年没。小学校長。芦品に生まれる。元は清水を名乗った。明治30(1897)年3月、広島県尋常師範学校を卒業した。同期卒業生には、松井善一、松田伊兵衛、土居肩吉などがいる。卒業後、芦品郡古府高等小学校訓導、沼隈郡松永高等小学校訓導を務めた。松永高等小学校は、明治33(1900)年まで西川国臣が校長を務めていた学校である。同校は、もともと松永町・神村・赤坂村・柳津村・金江村・藤江村・浦崎村・今津村・本郷村・東村・西村・高須村・山波村の13か村(松永町と松永湾を中心とした地域)で組合をつくって維持運営していた学校であった。
明治35(1902)年3月、浦崎・藤江・金江・柳津の4か村(松永湾東岸地域)は、松永高等小学校組合から離れて(4か村からは「解散された」と述べられている)、別に学校組合を設けた。同年4月、4か村組合による精華高等小学校を創立した。残りの7か村は、依然、松永高等小学校を我が校としている。これにより、松永町付近に松永・精華という2校の高等小学校ができたわけだが、両校はしばらく旧松永高等小学校の校舎を使用した。石井は精華高等小学校に勤めた。明治36(1903)年、校舎を移転、石井は同年4月に同校長に就任した。昭和4(1929)年時点でも、同校長を務め続けていたことが確認できる。
石井は、同校において教育尊重の輿論をさかんにし、学校設備の完備に努力し、教職員を統率・監督・指導して教授訓練の改善を図ったという。明治36年には藁葺きの仮小屋であった校舎を、明治38(1905)年1月と明治40(1907)年11月とに新築、明治44(1911)年に増築させた。明治42(1909)年4月には、修業年限を3年に延長させている。これらの功績が評価され、石井は明治39(1906)年3月に県より奨励金を受けた。また、沼隈郡教育会や沼隈郡からも、3度表彰されている。
昭和期には、沼隈郡小学校長会の会長、郡小学校教員互助会(大正4年7月創立)の会長、沼隈郡教育会(明治43(1910)年創立)の理事を務めた。昭和3(1928)年11月、御大礼に際して、文部大臣より表彰を受けた。
<参考文献>
広島県師範学校編『広島県師範学校一覧』1916年。
沼隈郡役所編『沼隈郡誌』、先憂会、1923年。
中江誠一『芸備彰徳史』第2編、芸備奨徳会事務所、1929年、320〜321頁。

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