「大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル51」
広島県会員
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浜田 惣右衛門 (はまだ そうえもん)
(写真なし)
帝国教育会広島県会員。大正2(1913)年4月から5月の間、芦品郡視学の徳満巳之吉の紹介で入会した。昭和8(1933)年度の名簿にも、その名前を確認できる。以後は不明。
?年生〜?年没。小学校長。深安に生まれる。明治32(1899)年3月、広島県師範学校を卒業した。同期卒業生には、山田恵喜太、神原倉吉などがいる。その後、深安郡安那高等小学校訓導、同郡賀茂高等小学校訓導兼校長を経て、大正4(1915)年には芦品郡古府尋常高等小学校に移り、訓導兼校長を務めた。
大正9(1920)年、広島市皆実尋常小学校に転じ、同校長を務めた。大正6(1917)年2月、文部大臣選奨を受け、150円を授与された。大正8(1919)年1月には、奏任待遇となる。大正9(1920)年3月正八位に叙せられ、大正15(1926)年8月には正七位を叙せられた。大正14(1925)年10月、広島市竹屋小学校に転じ、同校長となる。「浜惣」と呼ばれ、とくに大正中期に広島市に転じて以降は、市内の小学校長の中心となって尽力した大物校長であった。昭和期には、全国連合小学校教員会常任委員を務めている。戦後に退職。
浜田は、大正初頭における郡視学紹介による大量入会した小学校教員の一人であった。この時期に入会した小学校教員のなかで、昭和期まで会員であり続けた者はそれほど多くない。しかし、浜田は、大正・昭和期を通して帝国教育会員であり続けた。大正期以降の帝国教育会は、全国連合小学校教員会の幹部にまで上り詰めていく浜田であったからこそ、会員であり続ける意味があったのかもしれない。
<参考文献>
『帝国教育』
広島県師範学校編『広島県師範学校一覧』1916年。
中江誠一『芸備彰徳史』第2編、芸備奨徳会事務所、1929年、314頁。
文部省大臣官房調査統計課『人物を中心とした教育郷土史』帝国地方行政学会、1972年、561頁。

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