「大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル26」
広島県会員
ファイル26:
三好 清九郎 (みよし せいくろう?)
(写真なし)
帝国教育会広島県会員。大正2(1913)年1月17日から2月15日の間に入会。大正4(1915)年の名簿にもその名を見出せる。退会年月は不明。
明治21(1888)年生〜?年没。小学校教員・吉田町長。甲奴郡上州村の農家の三男として生まれた。明治43(1910)年、吉田町の三好家に養婿となり、三好姓を名乗っている。三好家は酢の醸造業を行っていた。
明治43年、広島県師範学校を卒業。それと同時に、甲奴郡矢野村小学校長に赴任した。明治45(1912)年、高田郡高小学校長に転任。恪勤精励よく職責を尽くしたという。しかし、大正5(1916)年、教壇を去って家業に従事することとなった。実は、大正2(1913)年、養父が死去していた。当時の師範学校卒業生は、第1部(高等小学校卒業程度)男子公費生は卒業後7年の小学校教員服務義務があった。明治43年第1部公費卒業生にとって大正5年はちょうど服務義務が切れる年だったわけである。
大正9(1920)年、若くして吉田町長に選ばれた。その仕事ぶりは、穎脱の齊木、事務を執るに快刀乱麻、釈難解紛の辣腕家であると評された。外見温順に見えるが、機略縦横・才気溌剌・明解敏達・倜儻猷勁、野心と実力を備えた老獪な人物と見られている。町長をしながら芸北自動車会社長としても活躍した。また、書画骨董を趣味とし、文学・歴史を愛して毛利家の氷川神社の建設期成同盟会副会長をも務めている。
三好が入会した大正初頭、帝国教育会は郡視学などを通じて会員増員を目指していた。当時、三好は、才気と野心あふれる青年校長であった。服務義務が切れると同時に家業を継ぐ、実業界に打って出るという教員は少なくなかった。優秀な人物であればあるほど、教職を去る誘惑は強かったであろう。
明治末期から大正初頭にかけての帝国教育会は、三好のような、全国に散らばる上昇意欲に沸き立った青年教員たちを組織していったと思われる。そうなれば、その後の帝国教育会は、それまでの古参のベテラン教員が多かった時代とは違ったあり方を模索せざるを得まい。この後に続く沢柳会長時代の帝国教育会は、そのような視点から捉える必要があるだろう。
<参考文献>
『帝国教育』
藤木潺渓編『広島県人物評伝』広島通信社、1925年、633〜635頁。

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