「大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル24」
広島県会員
ファイル24:
井上 贇馨 (いのうえ よしか)
(写真なし)
大日本教育会広島県会員。入会年月は不明。明治20(1887)年〜24(1891)年の名簿に名が見られる。明治26(1893)年の名簿にはその名はなく、明治25(1892)年〜26年の間に退会したものと思われる。
安政5(1858)年生〜昭和4(1929)年没。小学校教員。最初、寿三郎。安芸国山県郡壬生村に、神職・井上頼寿の次男として生まれる。生家の井上家は、明和年間(1764-72)に手習所を経営していた。贇馨は、元治元(1864)年より祖父井上頼定について五十音などを習い始め、慶応元(1865)年には大朝村の村竹氏に数字や名頭などの字と素読を受けた。慶応3(1866)年から明治4(1871)年までは、父の頼寿に師事して、往来物などの指導と四書の素読を受けた。それと並行して、慶応4(1867)年より明治6(1873)年まで、佐々木省吾について漢学を学んでいる。明治7(1874)年から明治8(1875)年までは、父頼寿と佐伯利麿・三上豊寿について国学を学んだ。
明治8年3月、山県郡第四番尋常小学の南方村・清新舎に着任、明治9(1876)年4月まで在勤した。同年5月、山県郡大朝学校において実地授業法・分数術・数学教授本の伝習を7月まで受ける。明治9年8月には広島区の片岡正占につき、翌明治10(1877)年7月まで再び国学の研鑽を積んでいる。明治10年9月、山県郡伝習所にて成田兵太郎につき、同年12月まで『小学新選算法』『物理階梯』を学んだ。同月、山県郡有田小学校に着任。明治11(1878)年1月、下等小学授業法卒業と認められ、同校四等教員を申しつけられている。
明治11年5月、川戸学校兼吉籐学校勤務を申しつけられ、教員を務めながら、川戸村用掛と学校世話役も引き受けた。明治13(1880)年6月には吉藤学校を受け持ちとなる。同年9月には広島県の試験によって公立小学校教員としての学力を証明され、同年12月、山県郡在勤を申しつけられるとともに準小学訓導補となった。明治15(1882)年2月、ついに六等訓導に任じられ、川戸東小学校在勤・川戸西小学校兼勤を申しつけられた。明治16(1883)年4月には、小学中等科(修身・習字・図画科)教授免許を受けた。同年12月には、文部省より教育上の勤労を賞された。なお、同じ頃、一時、父頼寿は郷里・壬生学校の学校世話役(明治12年)、兄頼次は奥今田小学校教員を務めている(明治15年)。
明治17(1884)年3月、奥今田小学校六等訓導となり、かつ春木小学校長心得に着任した。明治17年4月には、教員資質の改善のために設けられた広島師範学校教員講習科を修了し、小学初等科教員免許を受けた。明治19(1886)年3月、今奥田小学教場の六等訓導に任じられ、明治20年2月には広島県から教育上の功労を認められて賞与を受けた。同年4月、今田小学校簡易科訓導となり、明治24(1891)年まで務めた。明治24年、今田尋常小学校訓導となる。明治30(1897)年〜34(1901)年の間は、壬生尋常小学校長を務めていた。なお、明治17年、広島教育協会会員。明治20年、広島県私立教育会会員。明治34年1月に創立した山県郡私立教育会では、常議員の一人に選ばれている。
井上は、明治以前から手習所を経営していた神職の家に生まれ、祖父や父などから字を習い、漢学・国学を学んだ。師範学校卒業生ではないが、18歳にして小学教育に携わり、たびたび講習を受けて次第に小学校教員としての資質能力を高め、ついには校長を務めるに至った。井上の履歴は、教育に関係の深い家系から出た一青年が正規の師範教育ルートを経ずに教員となり、講習を利用して出世していく過程を示している。大日本教育会は、このようなエリートコースを進まなかったたたき上げの小学校教員をも包摂した組織であったのである。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『広島教育協会雑誌』『広島県私立教育会雑誌』
「履歴書」(明治20年、広島県旧千代田町蔵、鈴木理恵氏提供)
名田富太郎編『山県郡教育誌』広島県山県郡教育会、1943年。
鈴木理恵「広島県山県郡における手習塾清高堂の教育(上)」『芸備地方史研究』第176号、芸備地方史研究会、1991年1月。
鈴木理恵「広島県山県郡における手習塾清高堂の教育(下)」『芸備地方史研究』第177号、1991年3月。

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