「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル25」
東京府会員

ファイル25:
町田 則文 (まちだ のりふみ)
(写真出典:町田則文先生謝恩事業会編『町田則文先生伝』町田則文先生謝恩事業会、1934年)
大日本教育会茨城県・愛媛県・東京府会員、帝国教育会東京府会員。明治16(1883)年11月15日、大日本教育会に入会。明治21(1888)年、議員に選出された。明治21年5月の規則改正総会議(部門などの新設)に参加し、中等教育部門と学術・文芸部門との研究領域の重複を指摘して西村貞と議論を交わしている。町田は、この頃からすでに教育会の輿論形成・教育研究体制への興味を示していたのである。明治26(1893)年12月、組織改革に際して、常議員に選出。大日本教育会組合規程の趣旨徹底のため同規程を会員に説明することを主張、野尻精一とともに「大日本教育会組合規程説明」を起草した。また、単級教授法研究組合の発起人の一人であり、同研究組合では「単級小学校管理法」の研究を担当した。明治28年2月からは、本会の事務監督を務め、学校から帰る途上で一・二時間教育会事務に尽力している。これらを台湾へ行く明治29(1896)年まで務めた。明治33(1900)年9月、評議員・田中敬一の辞職に応じて補欠評議員に選挙される。以後、昭和4(1929)年に没するまで評議員を務め続けた。また、明治33年から36(1903)年までの間は、参事を務めている。明治30年代半ばの公徳養成問題においては、湯本・後藤・久保田・梅沢とともに委員として、『公徳養成国民唱歌』および『公徳養成』の編纂に尽力した。
安政3(1856)年生〜昭和4(1929)年没。中学校・高師教員、台湾国語学校長、女高師教員、盲学校長。安政3年、土浦藩士の一子として土浦に生まれた。慶応2(1866)年頃、藩校・采藻館にて漢学を学び、加えて木原老谷に師事した。明治5(1872)年8月、新治県立英学校化成館に入学して英語を学び、続いて同館助教授に採用された。明治7(1874)年2月、英語研究を志して上京。同年8月、尺振八の共立学社に入学、11月には助教を務めた。明治9(1876)年4月、官立東京師範学校中学師範学科に入学、入学試験の結果は志願者280名中1位だったという。明治11(1878)年7月、東京師範中学師範学科を卒業、同学科の最初の卒業生となった。この頃、アメリカ留学から帰国したばかりの高嶺秀夫に会い、敬仰するようになっている。
同年8月、茨城師範学校予科教師を拝命して水戸へ入った。明治12(1879)年4月から12月までの間、学校教員と県庁吏員とともに同倫社を結成し、毎月学術研究会を開いて、新知識を発表していた。明治13(1880)年7月、茨城師範学校予科が茨城中学校に改称再編したのに際し、同校教師となった。この頃、田中登作(後、開発社長)と親交をかわし、波多野貞之助(後、東京高師教授)を書生として養った。明治14(1881)年2月、茨城中学校教頭となった(8月に改正教育令に基づき二等教諭となる)。明治16(1883)年8月、広島県への招聘を受けて辞表を出したが、他県転任を惜しまれ、茨城県庁の喩旨を受けた。結局、茨城に残り、同月、郷里土浦に新設された茨城第二中学校の教諭兼校長となる。同年12月、仮名会に入会し、漢字廃止・仮名のみに国語を改良する運動に加わった。明治17(1884)年1月には茨城第三中学校長を兼務、明治18(1885)年9月まで務めた。明治17年5月には、土浦に私立普通学社を設立した。明治19(1886)年7月、茨城第二中学校廃校により、解職となった。
明治19年8月、再び上京。文部省の斡旋により、9月、松山に至って愛媛県師範学校一等教諭に着任した。9月29日、校長の命により教則編成に着手し、10月15日に報告した。明治21(1888)年4月、上京し高等師範学校を参観するとともに、森有礼文相の師範教育改革の模範校とされていた埼玉県尋常師範学校の寄宿舎・兵式体操場を見学した。町田は帰県後、松山第22連隊長に諮って兵式体操を実施に移している。この間、小学校教員東学力検定試験委員や文官普通試験委員を務めている。明治22(1889)年12月、遠藤宗義との衝突後、町田は愛媛県師範学校長に着任した。明治24(1891)年4月、小学校令取調を命じられて上京し、文部省に入る。その後一時帰県復命したが、同年5月には埼玉県尋常師範学校長に着任した。埼玉師範着任直後には、教授訓練に関する諸規則の制定・改正に尽力し、生徒の訓練に重きを置いた学級教員規程などを定めた。
明治25(1892)年11月、高嶺秀夫校長の招聘に応じて、高等師範学校教授・附属学校主事に着任した。この頃、町田が中心となって、学校と家庭との連絡を計るため父兄懇談会を設け、小学校各学科教授細目を編纂し、附属中学校に柔道科を設置している。明治27(1894)年7月には、嘉納治五郎校長に教育博物館改革意見を提出した。また、同年8月には、愛知県岡崎町で教育学と単級教授法の講義を行っている。明治29(1896)年6月、台湾総督府民政局事務官を拝命、台湾国語学校長に任じられた。伊沢修二とともに台湾教育の創設に尽力した。台湾では、清国時代歴史教授法や国語教授法の研究に努めた。明治33(1900)年4月、女子高等師範学校教授に着任し、台湾を去った。女高師では高嶺秀夫校長の下で野口保興とともに幹事を務め、野口が庶務会計、野尻は教務を担当した。明治38年5月には清国へ出張。明治39年5月には、第六臨時教員養成所の倫理科授業を嘱託されている。明治43(1910)年、高嶺校長死去後、女高師の組織改革が実行され、同年4月に町田は野口らとともに解職された。
明治43年6月、新設の東京盲学校長に着任する。同校では、授業前に全生徒へ日刊新聞を自ら読み聴かせ(退職まで継続)、御真影・勅語の拝受、校歌・徽章・制服の制定、杉山(和一)・塙(保己一)・山田(斗養一)三検校の顕彰を行った。また、文部省の盲唖其他特殊児童教育取調、外国の盲人教育の研究・翻訳、盲教育に関する各種講習会での講師、盲教育に関する各種会議への出席などを行っている。明治45(1912)年から大正4(1915)年までの間、師範学校・中学校・高等女学校教員等講習会の講師を務めた。大正5(1916)年には、関西四国へ出張し、愛媛・広島・岡山で講演して帰京した。
著書には、『突氏小代数学』(訳、明治17年)、『学校管理法』(明治36年)、『盲人教育』(明治44年)、『明治国民教育史』(昭和3年)などがある。また、もともと英語に通じていたが、明治26(1893)年9月にドイツ語の研究を始め、明治31(1898)年12月に台湾語の研究を始めている。これらの語学を生かして、とくに盲学校長時代に多くの盲人教育論・教授法の文献を翻訳している。さらに、執筆した雑誌記事は158件にのぼる健筆であった。また、20歳前後から日記を始めており、これが『町田則文先生伝』の詳細な記述の基盤となっている。
町田は、各地で教育会など私立教育団体の結成・運営にも関与している。明治13(1880)年1月、茨城県教育会議の会員となり、各種の諮問に相対した。この後同会議が開かれるたびに会員として諮問に答えている。明治16年の茨城教育協会の結成にあたっては、大いに斡旋したという。明治17年には、大日本教育会・東京茗渓会・茨城教育協会の会合に出席、教育会・茗渓会との関与を始めた。明治19年には茨城教育協会土浦支会の創立に尽力している。明治20年、愛媛県教育協会の結成において庶務・雑誌発行の委員として関わり、商議員と常任幹事として会務に尽力した。このとき、町田が同協会結成に関わった趣旨について、町田の伝記によると、以下のような思いがあったという。
先生は気鋭にして、学校の改革整理に寧日なかりし中にも、普通教育の完成充実は教育行政官や学校教員の努力のみによりて、真に其目的を達成し得らるべきにあらず、且県内交通機関の不備は今日より創造の及ばざる所にして、従って容易に旧藩割拠の弊を打破し難き情勢なりしを以て、県下各郡長を始め有識階級を網羅したる後援機関設立の要を説き、茨城県在職中茨城教育協会を設立したる経験に徴し、県の学務当局や学校職員の外、新聞記者・地方有志者等を糾合して愛媛県教育協会を設立せんとし、…
教育会の必要性として、@普通教育の完成充実および真の目的達成のために、教育行政官や学校教員以外に県下の有識階級を網羅する後援機関が必要であること、A交通機関の不備に基づく旧藩割拠の弊の打破、の二つが挙げられた。また、愛媛県教育協会結成の背景に、茨城教育協会結成における町田の経験が反映したことも興味深い。明治24年からは同協会の副会頭を務めた。埼玉時代には埼玉県教育会の活動にも参加している。
町田には、日記を参照して編まれた伝記が残っており、彼の生活をかなり詳しく知ることができる。町田は、教務幹事として卒業生を適材適所に置くためにその個性を詳細に知るべしと考え、機会を見つけて生徒との交流を怠らなかったという。生徒の健康にも人一倍気を遣い、病弱の生徒に勉学を中断させて帰国させる際には、熱心な説得を行い、涙を流して郷里へ着かせた。また、幹事室において卒業生の就職問題等に関して手紙を書くこと、日に三・四十通であったという。台湾国語学校長時代には、後藤新平民政長官を相手に後藤の「余り教育して、変な者を仕立てちゃ困るぜ」という言葉に、急に席を立って入口を閉めて席に戻るやいなや、キッとなって「変な者を仕立てるとは何う云ふ意味です」と問いただしたという。また、時間を見つけて、旧蹟巡りをたびたび行った。松山では道後温泉を気に入ったらしく、たびたび入浴したという。町田と同時期の帝国教育会評議員であった大束重善とは(明治40年〜)、一つエピソードが残っている。町田と大束は評議員会終了後いつもともに電車に乗り合わせて帰っていたが、帝国教育会を出る時に互いに帽子を取り違えたのに気づかず、翌朝お互い気づいて笑って交換したという。なんとも人間らしいやりとりではないかと思う。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』『帝国教育』
町田則文先生謝恩事業会編『町田則文先生伝』町田則文先生謝恩事業会、1934年。

0