「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル24」
東京府会員

ファイル24:
久保田 鼎 (くぼた かなえ)
(写真出典:芸術研究振興財団・東京芸術大学百年史刊行委員会編『東京芸術大学百年史』東京美術学校篇、第1巻、ぎょうせい、1987年)
大日本教育会東京府会員、帝国教育会東京府会員・奈良県・京都府会員。明治16(1883)年の大日本教育会結成以来の古参会員。アメリカ渡航中の明治28(1895)年度を除いて、大正4(1915)年度の名簿まで名を連ねている。明治19(1886)年5月、会務につき会長へ諮詢答申・意見提出を担う商議委員に選任され、初めて大日本教育会の運営に係わった。明治21(1888)年1月には議員に選出されたが、明治22年12月の議員廃止後しばらく役員を務めなかった。明治35(1902)年1月、帝国教育会が美術・工芸・音楽等に関する行政・教育・奨励などについて懇談会を開いた際、久保田も招待された。この席上で帝国教育会美術部の設置が決定し、同年2月、久保田は正木直彦や湯本武比古らとともに美術部幹事の一人を嘱託された。さらに、同年4月、後藤・湯本・町田・梅沢とともに公徳養成に関する歌及曲譜取調委員に指名され、『公徳養成国民唱歌』の編纂に尽力した。また、同年5月には、同委員と辻新次・清水ら帝国教育会幹部とともに公徳養成に関する参考書編纂委員を務め、『公徳養成』の編纂に関わった。とくに、「公徳私徳の定義」原案を作成、中島泰蔵の『公徳養成』執筆過程に大きな影響を与えている。また、同時期に並行して行われていた『菅公唱歌』の編纂についても深く関わっている。なお、詳しい選出年は不明であるが、明治36(1903)年1月から明治38(1905)年12月まで評議員を務め、帝国教育会の組織運営の一端を担った。
安政2(1855)年生〜昭和15(1940)年没。東京美術学校長・博物館長。理堂と号す。豊前国中津藩士の二男として生まれ、初めは理三郎と称した。幼くして親を亡くしたため、叔父の臼杵藩儒・白石照山に養われ、かつ漢書の句読を受けた。明治6(1873)年7月、東京府桜川学校授業生に着任、初めて職を得た。明治7(1874)年に文部省の写字生に採用されて以後、明治8(1875)年12月に文部筆生、明治9(1876)年12月に文部権少録、明治10(1877)年1月に文部会計局属官となった。明治12(1879)年から明治17(1884)年にかけて、久保田は上司の学事巡視にたびたび随行し、九鬼隆一や岡倉覚三(天心)とともに中国・北陸・北海道地方の学事を見て回っている。
明治16(1883)年1月頃、専門学務局庶務掛として、京都府画学校補助金交付申請書の文案を作成し、美術行政問題に関わった。明治18(1885)年8月、東京大学書記を兼任。明治20(1887)年12月、東京職工学校幹事となった。明治22(1889)年11月、帝国博物館主事に任命され、同館総長・九鬼隆一の下で一切の事務を整理することとなった。明治23(1890)年8月、東京美術学校幹事を兼任、明治24(1891)年9月には楠公銅像などの依嘱物製作のための同校工場監督も兼任した。明治25(1892)年6月、宮内省の臨時全国宝物取調掛を命じられ、各地へ調査に赴いた。明治28(1895)年2月、帝国博物館工芸部長心得、同年3月には理事をも兼任した。同年8月、博物館・美術に関する調査のためにアメリカへ渡り、明治29(1896)年1月に帰国した。明治29年5月、東京美術学校研究科の授業を嘱託された。明治29年5月、九鬼が委員長を務める古社寺保存会の委員に任命された。
明治31(1898)年5月、岡倉天心の下野に伴って混乱に陥った東京美術学校の幹事として、高嶺秀夫校長心得の下で事態収拾にあたった。同年12月には、同校教授兼校長心得を命じられ、明治32(1899)年4月には帝国博物館工芸部長の兼任を命じられた。明治33(1900)年1月、東京美術学校長および帝国博物館理事・主事に任命された。東京美術学校では、伝統美術派と黒田清輝を中心とする西洋派との摩擦があり、久保田は学校経営に苦心したという。明治34(1901)年8月、東京美術学校長を辞して、以後、東京帝室博物館主事に専念した。明治40(1907)年12月、奈良帝室博物館長兼京都帝室博物館長に着任し、奈良へ移った。明治41(1908)年5月、正倉院宝庫掛を兼任、大正3(1914)年9月には正倉院掛長、同年5月には法隆寺壁画保存法調査委員長を務めた。大正3年には京都帝室博物館長に専念したが、大正13(1924)年には再び奈良帝室博物館長に移った。昭和6(1931)年、退官した。
久保田は、長年、美術行政に携わってきた官僚であり、東京美術学校や博物館の運営に大きな影響力を持っていた。帝国教育会でとくに活躍した時期は、東京美術学校や帝国博物館においてその手腕を存分に振るっていた時期と重なっている。明治30年代の帝国教育会の芸術振興事業や公徳養成問題への対応については、久保田の役割が非常に大きい。芸術振興と公徳養成とが、久保田を介してつながっていた点は、非常に興味深い。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』
吉田千鶴子「岡倉天心と久保田鼎―久保田家資料を中心に」茨城大学五浦美術文化研究所編『五浦論叢』第10号、2003年、121〜133頁。

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