「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル19」
東京府会員

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野尻 精一 (のじり せいいち)
(写真出典:『日本之小学教師』第37号)
大日本教育会山形県・東京府会員、帝国教育会東京府・奈良県会員。大日本教育会結成直後からの古参会員であり、大正4(1915)年度の名簿までずっと会員であり続けたことを確認できる。明治21(1888)年1月、議員に選挙され、初めて役員に名を連ねた。ただし、このときはドイツ留学中であったので、実際に会の運営に携わるようになったのは、明治24(1891)年4月に評議員に選出されて以降である。明治23(1890)年11月、同年6月にドイツ留学から帰国したばかりの野尻は、大日本教育会の教育学術講談会に登壇し、「教育ノ目的」と題して演説を行っている。また、同年から師範学校小学校手工科取調委員を務め、新しい教科目である手工科の研究に従事した。明治26(1893)年12月の組織改革の際には、嘉納治五郎・能勢栄とともに研究組合の成立に尽力し、とくに単級教授法の研究に従事した。明治31(1898)年まで常議員・評議員を歴任し、大日本教育会の「学術会」化および創始期の帝国教育会運営に深く関わった。近衛篤麿会長辞職後、地方教育会との共同強化を目指した帝国教育会規則の改正に関わったのを最後に、評議員の地位を去っている。その後は、しばしば学制調査部委員などの様々な委員を務めた。
万延元(1860)年生〜昭和7(1932)年没。小学校教員・高師教員・文部省官僚・教育学者。姫路藩士・野尻直の嫡男として生まれる。慶応2(1866)年(?)、藩校・好古堂に入学して漢学を修め、兼ねて数学・英語を修めた。好古堂が廃校された明治5(1872)年、小学校掛を仰せつけられ(明治7(1874)年に小学校教員)、百数十名の教授にあたった。明治8(1875)年4月、飾磨県教員伝習所に入所。同年10月に小学師範学科を卒業した後、準一等訓導に任ぜられて再び教壇に立った。
明治9(1876)年9月、小学校教員の職を辞して上京。福地源一郎の湯島・共慣義塾に入り、英学を学んだ。しかし、野尻は、好古堂で学んだ『論語』為政第二の「君子不器」(優れた者は用途の限られた器のようなものではないといった意味)を思い、専門的知識しかもたない学者には知識の比較・統一ができず、したがって真理を発見することはできないことを嘆いたという。このことから普通学を志し、明治10(1877)年10月、官立東京師範学校へ入学した。明治15(1882)年2月、同校中学師範学科を卒業、文部省御用掛となり普通学務局へ勤務した。明治15年4月、東京師範学校の同窓会である茗渓会が創立されたが、野尻は茗渓会の前身である「級会」を創立したとされる(没するまで委員を歴任し、明治24年〜31年には主事を務めた)。さらに、明治16(1883)年1月、山形県師範学校一等教諭に任じられ、明治17(1884)年2月には校長心得、同年10月には校長兼中学校長に昇進している。
明治19(1886)年1月、依願免職。同年4月、ドイツ留学を命ぜられてプロイセンに入り、官立ノイチェルレ師範学校の師範学科を修めた。明治20(1887)年10月、ベルリン大学に移って哲学・教育学を学び、明治21(1888)年10月にはライプツィヒ大学で同じく哲学・教育学を専攻した。ライプツィヒ大学は、代表的なヘルバルト主義の理論家ツィラーが、没年(1882年)まで在職していた大学であった。野尻は、ヴント(哲学者・心理学者)に師事したという。なお、留学中に文部省から手工科調査を命じられ、スウェーデンのネース手工師範学校を訪れている。
明治23(1890)年6月、帰国。同年7月に高等師範学校教諭に着任、同年9月にはハウスクネヒトの去った帝国大学文科大学において、教育学の講義を担当し始めた。10月には、高等師範学校教授に着任している。明治24(1891)年1月、高師教授陣の高嶺秀夫・村岡範為馳・篠田利英とともに新法令(第二次小学校令)施行法案審査委員に任じられ、11月の小学校教則大綱の制定に深く関与した。同年7月には、尋常師範学校・尋常中学校・高等女学校学力試験委員に任じられた。明治25(1892)年4月、東京府尋常師範学校長に任じられ、高等師範学校教授を兼任した。明治27(1894)年1月には、日高真実の後任として帝国大学文科大学教育学講師を務めた。野尻は、帰国直後から教員養成(尋師・高師・帝大・文検)および小学校教則編成において重要な役割を担っており、明治20年代におけるヘルバルト主義教授理論の公教育制度への導入に大きな影響力をもっていた。
明治30(1897)年12月、文部省視学官に着任した。明治31(1898)年1月には高等教育会議の議員に任じられた。明治35(1902)年から36(1903)年にかけては、図書審査官を務めている。明治40(1907)年には、清国政府から派遣された提学使に対し、「日本興学経験」と題して明治以来の教育制度の概要を説明している。その内容は、冨山房から『日本欧美教育制度及方法全書』として漢訳されて明治41年に出版された。また、明治34(1901)年4月、第3回全国連合教育会へ文部省諮問の趣旨説明のため出席し、公徳養成方法や礼式の定式化、半日小学校について問題提起した。明治39(1906)年には、普通学務局長心得を務めている間、同年5月開催の第1回全国小学校教員会議に来賓として出席し、「現今に於る小学教育の内容」と題して演説した。
明治41(1908)年3月、高等女学校の増加に従って必要となっていた女性中等教員を養成するため、奈良女子高等師範学校が設置された。明治42(1909)年1月、奈良女高師の開校準備を進めるため、野尻が初代校長に就任した。野尻は、高等女学校教員の養成を主眼として、生徒の学力・技芸の発達と「婦徳」を涵養という点に学校方針を定め、同年5月に授業を開始した。設立当初の奈良女高師には附属学校がなかったが、やはりこれでは適当でないことが判明し、明治44(1911)年、野尻校長の下で、教育方法研究と本校生徒の教育実習のために附属高等女学校と附属小学校が設置された。また、野尻は、教員たちとともに女子の本分や婦徳、女子高等教育の特質、女子教育に関する教材について研究を続けていた。大正2(1913)年7月、この会合を発展させて、普通教育・幼児保育の方法を研究するため、教育研究部を組織している。同年2月、研究科規則を制定して、1年以上2年以内の間、卒業生または同等以上の学力を持つ者を入学させ、校長指定の指導教員について研究させる制度も実施している。奈良女高師は、野尻校長の下で教育研究体制を整えていったと見ることができるだろう。野尻は、大正8(1919)年7月まで奈良女高師を牽引した。その後、大正13(1924)年には、茗渓会に会員相互の互助会として共済会を設置し、その運営に尽力した。また、没するまで、共立女子専門学校専務理事を務めている。
明治初年に兵庫で小学校教員をしていたのは、家の貧困のため学資が不足していたからだという。上京後学者を目指したが、『論語』の言葉で普通学に興味をもち、高等師範学校へ入学した。高等師範学校卒業、ドイツ留学を契機に、野尻は一気に時の人となった。帝大・高師・尋師・文検にまたがる広範囲の活動範囲のなかで、ヘルバルト主義教授法教育の第一人者として、明治20年代の教員養成を牽引していく。また、同時に大日本教育会においても華々しいデビューを飾って、会運営の中枢に位置した。さらに、当時、形式陶冶の可能性を探っていた手工科と、外国の模倣から日本の特殊事情に適応する必要のあった単級教授法の共同研究にも加わり、教育研究者としても重要な役割を担った。明治30年代には文部行政に携わり、教育会と文部省との間に立つなどして、普通教育行政の推進に寄与した。晩年は初代校長として、教育方針の設定や研究体制の整備など、奈良女高師の礎を創った。藤原喜代蔵は、野尻を「学才に於て等輩を凌ぐのみならず、又事務の才に長じ統率の徳器を有す」としている。また、「気慨に富み宛然古武士の風格を具ふ」とする一方で、「資性温厚にして、綿密周到なれども、稍決断に乏しく、拙速に事を為すに適せざる欠点あり」と評している。野尻は、そのめざましい経歴とは裏腹に、じっくりと段階を積み上げながら、着実に時代を動かしていくリーダー気質の人だったようである。
<参考文献>
『大日本教育会雑誌』『教育公報』
「文部省視学官 野尻精一君小伝」『日本之小学教師』第1巻第2号、43〜45頁。
藤原喜代蔵『人物評論 学界の賢人愚人』文教会、1913年。
茗渓会編『茗渓会七十年史』茗渓会、1952年。
編集委員会編『奈良女子大学六十年史』奈良女子大学、1970年。
稲垣忠彦『増補版 明治教授理論史研究』評論社、1995年(初版1966年)。

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