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川面 松衛 (かわも まつえ?)
(写真出典:教育実成会編『明治聖代教育家銘鑑』第1編、教育実成会、1912年、296頁)
帝国教育会新潟県会員・京都府会員。明治38(1906)年11月付の名簿に、新潟県会員として記されている。大正元年・4年付の名簿にはその名を確認できない。明治末から大正初期の間に、一時退会したらしい。昭和8(1933)年の名簿には、京都府会員として再びその名を確認できる。
明治元(1868)年生〜?年没。師範学校長。長野県士族。明治17(1884)年9月、長野県師範学校に入学し、明治22(1889)年3月に同校を卒業した。同校では学力優等・品行方正であり、浅岡一校長に抜擢され、卒業と同時に長野県尋常師範学校助教諭心得となった。翌明治23(1890)年、長野県の推薦を受けて高等師範学校に入学、明治26(1893)年3月に博物学科を卒業した。川面は、高師卒業後すぐに長野県尋常師範学校訓導兼尋常中学校教諭に任じられ、その後、諏訪実科中学校教諭兼諏訪高等小学校訓導に転じた。
明治31(1898)年9月、広島県師範学校に奏任待遇で同校教諭として招かれた。当時の広島師範は、同年1月に長年校長を務めてきた大田義弼校長に代わって安達常正校長に代替わりし、かつ師範教育令準拠の学校体制再編直後であった。このような時期に、県外から川面が奏任待遇の筆頭教諭として招かれたことは、新体制に対応した教員組織の構築過程において、重要な布石だったと思われる。明治31年12月付の職員一覧表によると、川面は教務長を勤めている。また、地文博物科を担当した。
川面は、明治34(1901)年11月以来、女子師範学校長を歴任することになる。同月、新潟県女子師範学校長に着任した。同校は、明治31年以来の県会における師範学校増設・拡張をめぐる誘致運動の果てに明治33(1900)年9月に開校し、明治34年6月に新校舎の竣工式が行われ独立したばかりの新設校であった。明治42(1909)年9月、奈良県女子師範学校長に転任し、大正2(1913)年5月まで勤めた。奈良女子師範では、師範教育令改正にともなって学則改正を行ったが、第2部(高等女学校卒業者対象)の設置は行わなかった。大正2年からは千葉県女子師範学校長となり、大正6(1917)年まで勤めた。
大正6年7月、川面は埼玉県師範学校長となった。ここから男子師範学校長を歴任することになる。大正12(1923)年3月、京都府師範学校長に転じ、昭和7(1932)年3月まで同職を勤めた。京都師範では、もともと運動部の活躍にめざましいものがあったが、川面は運動精神を絶讃してスポーツを奨励した。川面校長指導下の京都師範では、大正13(1924)年に修学旅行先を改め、例年旅行していた大和地方や京都府・近隣府県の小学校、および東京方面に、朝鮮・満州方面を新たに加えた。一年生あるいは五年生を伊勢神宮へ定期的に参拝させることも行っている。また、大正12年から大正14(1925)年の間、本科第1部第1・第2学年において研究法の習得のために課外時間を利用して教員指導の下で博物・地理・歴史の研究させた。附属小学校では、能力別学級編制やプロジェクトメソッドやドルトンプランの研究・実践を行い、「応能教育」の実施を目指していた。大正14年には、師範学校規程の改正にともなって、予備科・講習科の廃止、修業年限の改定、現役将校の配属を行った。大正15(1926)年には、附属小学校特別学級(停滞児童の教育を研究)の創設、専攻科の新設、卒業生講習会の開催、小学校教員学力補充講習・実業補習学校教員養成所等の開設、学級・学校自治会の組織した。
川面が教育会の分野でも活躍した時期は、明治30年代であった。明治34年4月、川面は、広島県私立教育会代議員として第三回全国連合教育会に参加した。文部省諮問題「小学校及中学校ニ於テ公徳ヲ養成スルノ方法如何」について発言し、学校外において唱歌による公徳養成法を提案した。連合教育会最終日の15日には、広島・岡山・兵庫の代議員やかつての上司・安達などの合意をまとめて、公徳養成に関する歌曲の調査・作成・とりまとめを帝国教育会に一任する建議案を提出した。この川面らの建議案は、帝国教育会が言文一致唱歌運動を行っていた田村虎蔵などを動員して、『公徳養成国民唱歌』(明治36年)を編纂する契機となった。
川面は、新潟県女子教育会を創設し、新潟県長岡市の女子教育の振興にも努めた。明治35年3月、新潟女子師範学校長だった川面は、古志郡長と同郡視学らとともに、新潟県女子教育会を創設した。同教育会は、女子師範学校に本部を置き、通常会員を女子とした。その目的は、家庭教育と学校教育の関係を密接にし、家庭に美風良習を振興させ、女子初等教育を普及・改善し、女子の公徳(国家社会に対する責務)を研究してその実行を期すことであった。明治38年には機関誌『家庭の栞』を発行した。明治39年4月には下婢教場を設立し、長岡市の女教員が無報酬で教師を務めた。同教場では、女教員たちの経験を基にして『女子簡易読本』を編纂し、読方教科書としている。川面の転任以降は、精彩を失ったという。
川面の人柄は、「人に対して篤敬、事に当る慎節、其の才を隠し其の学を包み温良恭倹(…中略…)真乎教育家の資質完備せりと謂つべし」と評されている。川面は各地で長く師範教育に従事し、大正後期における師範教育改革にはめざましいものがあった。しかし、川面の活動は師範学校に止まらなかった。広島では、広島県私立教育会の代表として、全国連合教育会で文部省諮問題について発言し、公徳養成法の具体化に向けて帝国教育会を動かした。新潟では、新潟県女子教育会を主導して、女子教育の普及改良にあたった。川面の功績は、教育会での活動に注目することよって、師範教育だけでなく道徳教育・女子教育にも広がっていたことがわかるのである。
<参考文献>
『教育公報』『帝国教育』『職員録』
広島県師範学校編『広島県師範学校第二十五年一覧』広島県師範学校、1899年。
東京高等師範学校編『東京高等師範学校一覧』東京高等師範学校、1908年。
教育実成会編『明治聖代教育家銘鑑』第1編、教育実成会、1912年、296頁。
京都府師範学校編『京都府師範学校沿革史』京都府師範学校、1938年。
新潟県教育百年史編さん委員会編『新潟県教育百年史 明治編』新潟県教育庁、1970年。
白石崇人「明治期帝国教育会における道徳教育研究活動―明治34〜35年公徳養成問題への対応を中心に」中国四国教育学会第58回大会自由研究発表用レジュメ、2006年。

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