「大日本教育会・帝国教育会東京府会員ファイル14」
東京府会員
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武居 保 (たけい たもつ?)
(写真なし)
大日本教育会東京府会員。東京教育会の草創期からの幹部であった。明治12(1879)年11月改定のものと考えられる東京教育会社則には、本社員(幹部)の一人として名が挙がっている。東京教育学会でも演説に立つなど、積極的に活動に参加した。明治16(1883)年9月の大日本教育会結成に際しては、幹事(庶務担当)に特選されている。明治19(1886)年には商議委員、明治22(1889)年には議員・常置委員となった。明治25(1892)年には評議員に選出、明治26(1893)年12月の組織改革まで評議員を務めた。以後、幹部には再選されていない。明治28(1895)年の名簿まで名を確認でき、大日本教育会の結成から帝国教育会への改称再編まで会員であったことがわかる。また、明治35年1月中に帝国教育会へ入会したが、明治38年11月までに退会した。
?年生〜?年没。小学校教員・私立学校長。長野県平民。明治11(1878)年2月、東京師範学校小学師範学科を卒業した。後に同じ東京教育会本社員となった大束や丹所などに比べて、若干遅い卒業であった。同年、武居は東京府の錦華小学准訓導となり、さらに東京府師範学校教師傭を兼ねた。明治13(1880)年時点では、東京府下の習成小学教員となっている。なお、明治15(1882)年5月、東京茗渓会の創立準備のための仮会則草案委員の一人となり、若林虎三郎や芳川脩平、野尻精一らとともに同会の結成準備にあたった。同年6月、武居は東京茗渓会の創立とともに同会委員となり、明治21(1888)年まで佐野や生駒らの下で会の運営に参画している。また、明治24(1891)年から27(1894)年まで、再び委員となった。
武居は、明治20(1887)年1月、下谷区に一新学館を創立し同館長となる。一新学館は、教育課程・教科書・教授法・生徒心得などを東京府の「小学校ノ学科及其程度」「小学教則」と文部省の「小学校教則大綱」に準拠させ、満6年以上14年までの初学者を対象に定員140名(高等科60名・尋常科80名)を収容し、館長1名と教員2名で運営する私立小学校であった。開学届の際に示された各規則等は、他の私立小学校の開学届とは違って手堅く定めており、東京府における小学校運営に関する武居の知識水準の高さを示している。ただし、この学校がいつまで開業していたかは不明である。なお参考までに、東京茗渓会の会員名簿に記された武居の業務は、明治20年以前の名簿では空白か「非役」、明治22年12月の名簿では「府下私立学校長」、明治23(1890)年12月以降の名簿では再び空白になっている。
武居は、著作活動も行った。内田鶴吉編『小学新撰唱歌』(明治20年)に、武居の歌「紅葉」が収録されている。「紅葉」で歌っていたのは、四季がめぐって紅葉するように、人も青年を越えればついに赤心(まごころ、尊皇心・愛国心)が現れるといった意味であった。
また、明治22年、武居は小冊子『学科大意』を著し、人性学・史学・養生学・処世学・政治学・修身学について論じている。武居によると「人性学」とは、「心ノ体」「心ノ用(役目)」「心ノ性」「心ノ能(働き)」から成る「心霊ノ組成」と、「気・質・性」から成る「人ノ性」について論じる学問だという。ヨーロッパにおける心理学は「心霊ノ組成」のうちの「心ノ性」と「心ノ能」について少し論じているが「人ノ性」を論じておらず、東洋では「人ノ性」を論じるが学問的に順序立てて論じていない。日本人の「性」は、始めは「美」だがしばらくすると「病」を持ってくるため、悪所・欠点を指摘し、養生法と注意を付さなくてはならない。そのため、日本人の改良を図るために、「心霊ノ組成」と「人ノ性」とを合わせた「人性学」を論じたい、としている。そして、巻末に「心霊組成之図・心霊組成解釈之図」「人性法規之図・人性法規解釈之図」「世界人質変更之図」という図表3種を掲げた。図表では枝分かれ式で細かく「心霊組成」と「人性」について論じている。なお、東京教育会では明治13年8月に機関誌で「倭人必需人心論」を発表、東京教育学会でも明治16年7月に演説と機関誌に「人性学」を発表している。武居は、日本人の改良のために、神秘的・抽象的な分析法で人の「心」の性質について長年考えていたらしい。その動機は、「紅葉」に見られたような武居自身の愛国心からきたものだろうか。
明治25年・26年には『史学日本理上史』第1冊・第2冊を著した。なお、この「理上史」というのは、『学科大意』の史学の項でも論じられており、世にある「開化史」とほぼ同じだが、古代史(神代史)と人代史に分けて人事・現象の系統と結果を論じ、歴史の法則を見出して、自己・自国の意志発達のために講ずるものだとされている。明治42(1909)年には、『帝国教典』神世史上・下巻を著している。
明治41(1908)年12月の帝国教育会創立満二十五年記念会では、武居は大日本教育会結成以来の評議員・理事者・各種委員となって会務に尽力した功を認められ、功績記念品を贈呈された。謎の多い人物であるが、大日本教育会結成以来の組織運営における功績は大きかったと解せられるだろう。東京茗渓会結成以来の組織運営についても同様であり、明治中期における教育団体結成の立役者の一人であったといえる。
<参考文献>
『東京教育会雑誌』『東京教育学会雑誌』
『大日本教育会雑誌』『東京茗渓会雑誌』『教育公報』『帝国教育』
東京師範学校『自第一学年至第六学年東京師範学校沿革一覧』東京師範学校、1880年。
東京都立教育研究所編『東京教育史資料大系』第4巻・第5巻、東京都立教育研究所、1972年。
茗渓会百年史編集委員会編『茗渓会百年史』茗渓会、1982年。

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