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辻 新次 (つじ しんじ)
(写真出典:『帝国教育』403号、1916年2月より)
大日本教育会初代・3代〜7代会長、帝国教育会2代〜9代会長。両教育会東京府会員・名誉会員。『東京教育学会雑誌』第13号(明治16年7月刊行)に入会の旨が記される。大日本教育会結成直前の明治16(1883)年7月19日、『東京横浜毎日新聞』に「このほど辻新次氏が入会ありてより大いに拡張の議を起され」とある。この記事の真偽は不明だが、辻の入会が大日本教育会結成の直接的契機の一つとなったのは間違いない。同年9月9日、大日本教育会結成とともに行われた役員選挙によって初代会長に選出されたが、同月15日に辞退して副会長となった。明治17(1884)年に選出された九鬼隆一会長のもとで副会長を務め、九鬼の渡米後には会長事務を取り仕切った。明治19(1886)年4月、正式に会長に選挙・就任。以後、幾度かの辞任騒動を経ながら、大日本教育会長を務め続けた。明治29(1896)年の帝国教育会改編を前にして近衛篤麿に会長職を譲った。しかし、明治31(1898)年の近衛会長辞職後、後任会長選挙が暗礁に乗り上げたため、役員達の懇願を受けて、辻は再び会長職に就いた。以後、大正4(1915)年末に死去するまで帝国教育会長で在り続けた。辻の大日本教育会・帝国教育会長在職年数は、実に約27年、会長経験者のうち在職年数1位である。
天保13(1842)年生〜大正4(1915)年没。文部省高官・保険会社社長・貴族院議員。信州松本藩士の次男として生まれ、幼名鼎吉、後に理之助・新次郎・新次と改名した。12歳から藩校崇教館で朱子学を学び、後蘭学を志した。文久元(1861)年、江戸に遊学、苦学して幕府の蕃書調所精錬所に入って化学を学んだ。火薬製造中の事故で瀕死の重傷を受け、軍人志望をあきらめ、以後仏学の研究に邁進した。傷の回復後、開成所化学教授手伝に登用された。また、この時期、鈴木唯一・佐沢太郎等と新聞を発行、かつ下谷練塀町にて仏学家塾を経営したという。この家塾での教え子の中には、古市公威がいたという。明治維新後、新政府に登用されて開成学校教授試補となり、ついには明治5(1872)年大学南校校長となった。明治19(1886)年には、この年に創立された仏学会(東京仏学校を維持)の会長を務め、この時期までフランス学者としての権威的地位を維持していたことがわかる。
明治4(1871)年、文部省設置と共に文部権少丞に就任した。また、大木喬任文部卿の下で学制取調掛に任命され、その仏学の学識をもって学制起草に参画した。学制布告後は、学校課長や各官立学校長、第五大学区督学事務などを務め、教育行政に尽力した。明治10(1877)年、文部権大書記官に就任、教育令制定・改正に参画した。また、同年6月に汎愛社を鈴木・佐沢等とともに設立、『教育新誌』を発行した。さらに、大日本教育会結成への関与はこの時期にあたる。辻が会へ関与した意図は詳細でないが、文部省の教員統制政策が背景にあるとされている。ただ、会の母胎が東京教育会から連なる教員団体であったことを等閑視してはならないことは付記しておく。明治19(1886)年、辻は初代文部次官となって要務を任された。
明治25(1892)年、辻は教科書検定に関するゴシップに巻き込まれ、病気を理由に文部省を去った。文部省辞職後の辻は、その後も在野に埋もれることはなかった。明治27(1894)年、教員の遺族を救済する目的で、生命保険を取り扱う仁寿生命合資会社の社長に就任。学制研究会にも参加した。明治29(1896)年には貴族院議員に勅任、明治30(1897)年以降は高等教育会議員を歴任し、教育擁護の立場からたびたび意見を提案した。明治39(1906)年勲一等瑞宝章、明治41(1908)年男爵となった。
辻は、その文部官僚としての能力から、森有礼文相に「良き女房役」と評された。その性格は穏和・円満・寛大・親切・勤勉・忠実とされ、忍耐強さから「藤蔓」、公平さから「平均八合」とあだ名された。また、大日本教育会・帝国教育会に寄附した金品は、他の追随を許さないほどの額であった。とくに大日本教育会初期においては、辻の私的な寄附金によって不足分を補っていたようである。辻は、大正期の帝国教育会長である沢柳政太郎と比べ、リーダーシップに欠けたという指摘があるが、明治期の大日本教育会・帝国教育会は、様々な思惑・立場の人々が入れ替わり立ち替わり出入りした集団であり、むしろ辻のような無私・寛容の人でなくてはまとまらなかったであろう。
<参考文献>
橋南漁郎編『大学々生遡源』下巻(復刻版)、大空社、1992年(初版は1910年)、19頁。
「噫辻男爵」『帝国教育』403号、1916年2月、82〜119頁。
阿部季雄『男爵辻新次翁』、1940年。
唐沢富太郎編『図説教育人物辞典』下巻、ぎょうせい、1984年、565〜569頁。

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