「大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル20」
広島県会員

ファイル20:
大田 義弼 (おおた よしすけ)
(写真出典:『日本之小学教師』第3巻第30号、国民教育学会、1901年)
大日本教育会広島県会員・帝国教育会山口県会員。明治16(1883)年12月付の名簿にすでに名が見える。明治18(1885)〜20(1887)年ごろ退会。高等師範学校在学中は退会していたらしい。明治24(1891)年11月から再び広島県会員として入会し、明治38(1905)年・大正元(1912)年・大正4(1915)年度の名簿では山口県会員の中に名を連ねた。
嘉永6(1853)年生〜大正12(1923)年没。師範学校長・高等女学校長。大田は山口県岩国に生まれ、明治10(1877)年2月に官立広島師範学校を卒業した。卒業後同年2月から10月まで、広島県鞆津小学校にて訓導を務めている。大田が転任して二ヶ月後のことではあるが、鞆津小学校は同年12月に「校舎完備設備整頓し、且男女を区別して教授するは稀なるを以て、広島県より小学模範小学校の名称を附せられ、併せて補助年額金二百円を賜は」ったという。大田は、明治10(1877)年11月に広島県師範学校へ転任、明治20(1887)年3月まで教諭および舎監を務めた。
明治20(1887)年4月、34歳にして東京の高等師範学校博物学科に入学、明治23(1890)年4月に卒業した。高等師範学校卒業後、すぐに広島県師範学校に奏任待遇教頭兼教諭として着任した。明治23(1890)年4月に高等師範学校卒業後、大田はその成果を早速広島に普及させることに務めた。同年6月には奴可三上恵蘇三郡小学校教員年次練習会・教育会に出席して「植物学一班」を講義し、8月には蘆田外三郡小学教員年次練習会に派遣されている。さらに、このころの大田は、教頭として大河内輝剛校長から細事を一任されていたという。明治25(1892)年6月、大河内校長の依願免官を受けて広島県師範学校長に就任した。明治31(1898)年1月、茨城県師範学校長に転任したが、明治32(1899)年6月再び広島県師範学校長に就任。さらに明治33(1900)年10月に愛知県師範学校長へ転任、以後広島の地を離れた。明治42(1909)年、山口県玖珂郡立岩国高等女学校長に就任、大正5(1916)年11月退職している。
教師としての大田は、生徒からは「最も畏れ憚られて居た」という。ただ、「細心の勤勉家」であり、卒業生の就職先の斡旋などもしている。さらに一方で校内の植物園の整備を行い、「植物教科書中の植物を網羅し、天下中等学校中、他類の無い広大斉頓のものなりとの公評が有った」といわれるほどのものに仕上げた。また、教育研究者としての業績もあり、単著で『小学新選算法解式』(明治13年)・『新撰小学入門』(明治14年)・『新撰求積問題』(明治17年)を出版、共著には『開発主義小学教授法』(竹本重雄共著、明治17年)、編著には『動植物字引』(峯是三郎共編、明治18年)があった。
大田は、広島教育協会および広島県私立教育会において顕著な活動を行った。明治16年1月に広島教育協会が結成された。その結成直後の幹事の中には、大田の名が見える。明治17年5月の役員改選の時には、得票数一位で幹事に再選している。明治20年4月、広島県私立教育会が結成されたが、高等師範学校在学中のため、大田はその結成には参加していない。しかし、帰広直後の明治23年5月にすでに同会理事を嘱託され、その後理事を歴任し、明治26年10月、会長に就任した。また、協会においても県教育会のおいても活発な教育普及活動を行い、各機関誌に多くの論説を掲載させた。『広島教育協会雑誌』には多くの論説を掲載したが、それとは別に10ヶ月にわたって「大義」というペンネームで「学校教科書中疑問に対する釈疏」という問答調の記事があるが、これは大田によるものと思われる。また、『広島県私立教育会雑誌』にも多くの論説を掲載し、学校管理や植物学に関する論説を多く発表している。特に、明治22年7月から9月まで実施した、高等師範学校の修学旅行の詳細な記録を連載している。
大田は、広島県教育界において高い地位にあり、活発な教育研究を行い、熱心に教育普及に努めた。特に齢三十を超えてひとかどの地位を有しながら、それをかなぐり捨てて高等師範学校へ入学した点は驚嘆に値する。さらに、高師卒業後の活動は従前よりも顕著となった。その活動は、まさに教育会の一般的な目的である「教育の普及改良及其上進を図る」活動そのものであったといえよう。
<参考文献・資料>
『広島教育協会雑誌』『広島県私立教育会雑誌』『大日本教育会雑誌』
鞆尋常高等小学校編『学校沿革誌』、広島大学日本東洋教育史研究室所蔵。
広島県師範学校編『六十年回顧録』、1935年。
広島県教育会編『広島県教育会五十年史』、1941年。
岩国市史編纂所編『岩国市史』、岩国市役所、1957年。
三好信好『日本師範教育史の構造』、東洋館出版社、1991年。
ご子孫から提供いただいた情報。
※2017.3.27、ご子孫からの情報提供により追記。

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