「大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル15」
広島県会員

ファイル15:
三上 主一(みかみ もりかず?)
(写真出典:本川小学校編『創立百周年記念誌』、広島市本川小学校、1973年)
大日本教育会広島県会員。入退会年は不明。明治20(1887)年度の名簿に初出、明治28(1895)年度の名簿に見えるのが最後である。
嘉永3(1851)年生〜大正13(1924)年没。小学校校長。広島に生まれ、安政6(1859)年より明治初年まで広島藩の学問所にて漢学を修める。やがて学問所句読師となり、修道館授義となる。明治7(1874)年から使由舎の責任者を務めたが、白島学校に入学。明治8(1875)年6月、同校(改称して広島県公立師範学校)下等科を卒業、明治10(1877)年12月、ふたたび同校(さらに改称して広島県師範学校)下等科を卒業、明治11(1878)年7月、同校上等科を卒業した。
卒業後、本川小学校に教員として着任、明治15(1882)年から同校の校長を務めた(同校は明治17年に成達小学校、明治19年に成達尋常小学校と改称)。明治17(1884)年3月、広島師範学校小学校教員講習科に入学、同年4月修了。明治20(1887)年初秋、三上は他府県の学事状況を視察するため旅行。その旅日記中の教育に関する事項を抄出して『広島県私立教育会雑誌』に投稿、同誌雑録欄中に「人物養成」「中学校小学校の関係」「幼稚園保育科」「小学校」について掲載された。その学事状況報告は、東京・滋賀・大阪・京都・福井・石川・長野・三重・愛知の情報にわたっており、当時の広島県に多量の他府県情報をもたらしたといえよう。また、同年10月23日・24日には、三上が校長を務める成達尋常小学校にて幻燈会を開設、その後各小学校で順次施行されたという。また同月24日〜31日の間は、成達尋常小学校にて教育品展覧会が盛大に開催された(参観者のべ48,099人という)。
明治21(1888)年、温知尋常・高等小学校長に任じられた(温知尋常・高等小学校長であった長沢智水は交替で成達尋常小学校長となる)。明治23(1890)年、もともと別置の学校であった温知高等小学校は広島高等小学校と、温知尋常小学校は袋町尋常小学校と改称。ただし移転していないので、両校長は変わらず三上であったと思われる。明治26(1893)年、尋常小学校は移転して播磨屋長尋常小学校と改称され、三上は同校の校長となった。しかし、翌明治27(1894)年に同校長を後任の住本権蔵に譲った後、しばらく履歴不明。ただし、あいかわらず広島市内の小学校長であった可能性は高いようである。明治38(1905)年から明治39(1906)年の間、広島市第一高等小学校(先の広島高等小学校)の訓導兼校長を務めていたことは判明している。三上の初等教育上の功労は、県知事によって数十回も、さらには文部省からも賞せられた。晩年は居住した広島市空鞘町のために尽くし、清嘯と号して詠詩を楽しんだという。
三上は、積極的に県内の教育会に貢献した。特に広島県私立教育会では、明治20年の同会創立時の規則草案委員を務めてその創立に貢献し、同会成立以後明治38年まで常議員を務めた。また、明治37年からは同会理事を務めている。さらに、広島区の教育行政にも関与し、着任期間は不明だが広島区書記を務めた。なお、明治20年に広島小学区小学生徒学力及人物査定法を議決した広島小学区教育会の副会長を務めていたこともわかっている。三上は、明治期広島市の大物小学校校長であったといえるだろう。
<参考文献>
広島県私立教育会編『広島県私立教育会雑誌』第1〜10号、1887〜1888年(広島県立公文書館所蔵)。
広島県私立教育会編『広島県私立教育会雑誌』第11〜53号、1888〜1892年(鳴門教育大学所蔵※。33・47・48号は広島女子大学所蔵)。
広島県師範学校編『広島県師範学校一覧』、1916年。
玉井源作編『芸備先哲伝』、広島積善館、1925年。
広島県教育会編『広島県教育会五十年史』、1941年。
本川小学校編『創立百周年記念誌』、広島市本川小学校、1973年。
広島市教育センター編『広島市立学校沿革誌』、1989年。
※ 鳴門教育大学での資料収集では、梶井一暁先生の多大なる協力を得ました。機会に恵まれず御礼が大変遅くなりましたが、ここで御礼申し上げます。

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