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ひとりの人間の「真実の生き方」への模索の記録

 
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マルクス「経済学哲学草稿」

誤解されてきたマルクスの疎外論

一般に、原本を正しく読まず、先入観でマルクス疎外論を自己流に解釈している例は多い。

「経済学・哲学草稿」の思想(いわゆる初期マルクスの思想)は、簡単に言ってしまうとこうである。つまり、資本主義経済というものはお金の蓄積によって“カネの論理”によって動いていて、このような社会は人間の自由な創造行為としての労働を「疎外」してしまう、ということである。ずいぶんと乱暴な言い方であるが、要するにそういうことである。
(佐々木信男「ひとりよがりのマルクス論」より)


よって、労働者を疎外状態から解放するために、資本主義を打倒しなければならない・・・などと曲解はつづく。実はこのような主張はマルクスによって批判にさらされるプルードンなどが主張した考え方だ。(国民文庫P114)
マルクス自身の思想に迫ろう。正しくはこうだ。

「(私的所有は)一方ではそれは外化された労働の所産であり、そして第二にそれは、労働がそれを通して外化する仲介手段であり、この外化の実現である・・。」(P114)

つまり、私的所有(その完成体としての資本主義経済)が疎外を生み出したのではなく、逆に労働が自らを「疎外」するために、私的所有(資本主義経済)を必要とし、生み出したということなのだ。
マルクーゼは、マルクスによるこのような「現実的事実の意外な観念論的転倒」についてこう記している。
「このように書いているのはマルクスであってヘーゲルではない!このような一見転倒しているかにみえるもののなかに、なによりもまずマルクス理論の決定的発見の一つが表現されている。」(「初期マルクス研究」)

疎外の人類史的意義

ところで、労働はなぜ自らを「疎外」する必要があったのだろうか?それは人間にとってどんな意味をもつことだったのだろうか?
マルクスは次のように問いを投げかけている。

「どのようにして人間は、彼の労働を外化し、疎外するにいたるのか?どのようにしてこの疎外は人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」
第一手稿にはこの問いに対する直接の答えは述べられていない。だが、こんな意味深い言葉が先の問いに続いている。

われわれはすでに課題の解決のために多くのものを獲た。というのは、われわれは私的所有の起源についての問いを、外化された労働が人間の発展行程にたいしてもつ関係にかんする問いへと変えたのだからである。・・ひとは私有財産について論じる場合には、人間の外にある事物とかかわりあっているものと信じるが、労働について論じる場合には、直接に人間自身に関わりあっているからである。この新しい問いの出し方は、すでにそれの解決を含んでいる。」
(P116)


私的所有の主体的本質を労働として把握(P135)することによって問題の立て方のコペルニクス的な転換がうまれる。
人間の類的本質としての労働が、自己を否定して発展する過程として私的所有を把握することができれば、「否定の否定」としての労働の自己奪還の意味も、私的所有の止揚としての共産主義の意味も自ずから明らかとなるはずだということだろう。(*)

(*)ちなみに、マルクスは「民主主義的にせよ専制主義的にせよ、政治的な性質の共産主義」を「それはなるほど私的所有の概念を把握したけれども、まだその本質を把握しなかった」「私的所有によってとらわれており、感染されている」共産主義であると決めつけている。

さて次に、「どのようにして人間は、彼の労働を外化し、疎外するにいたるのか?どのようにしてこの疎外は人間の発展の本質の中に根ざしているのか?」というマルクスの問いに対する自分なりの答えを述べてみたい。

「対象化はすでにそれ自身の中に物化への傾向を含み、労働はすでにそれ自身のなかに外在化への傾向を含んでおり、したがって物化と外在化とは単に偶然的な歴史的事実ではない。」
「つまり人間の発現ははじめに、まず疎外に向かう傾向をもちかれの対象化は物化に向かう傾向をもつのである・・」
「人間は生命の発現の総体性に欠けており、自分の存在を現実化しうるためには、自分に前提され、対置されている対象の中で発現することが必要になる。人間の実証や確証はかれに対立している外在性をわがものとし、外在性の中に身を移すことの中にあるのだから、人間の存在の中にすでに外在性があたえられている。」(マルクーゼ前掲書)


実は、疎外の基礎は人間の本質の中に組み込まれているのである。
人間は労働によって自分自身を生み出してきた。労働こそ人間の本質を規定するところのものである。他方、労働とは対象化であり、自己をひとつの対象のうちに固定することである。対象に自分を預け入れる以外に自己を発現することができないという人間の本質がもつ矛盾。この矛盾の展開、対象化→外在化→疎外(対象的世界においては生産物→商品→資本)という自己展開。それこそが歴史を規定してきたといえるのではないだろうか。

では、「疎外」の人間発展史上の意義とは、何だろうか?

「・・・産業の歴史と産業のすでに生成した対象的現存在とは、人間的な本質的諸力の抜かれたる書物であり、感性的に眼前にある人間的な心理学である。・・
通常の、物質的な産業のうちにわれわれは、感性的な外的な、有用な諸対象の形式、疎外の形式のもとに、人間の対象化された本質的な諸力をわれわれの眼前にもっている」(P156)


人間の生の発現は「外の世界」において展開する。人間的な富が、非人間(物化された世界)において蓄積されていく。私的所有の純化された形態である資本主義においては、あらゆるくびきを打ち破って人間の労働の対象的に展開された富が蓄積されていく。普遍的に発達しつつある人間の諸能力が、物象化された鏡のむこうの世界で開花する。対象的世界において、人間が自分自身を生産する過程が進行する。
そうして新たな獲得が準備される。

「人間は彼の全面的本質を、ある全面的なしかたで、つまりある全体的な人間として、わがものとする」(P151)
「現に生成しつつある社会は、私的所有とその富ならびにみじめさとの運動をとおして、この(人間的感覚の)形成のためにすべての材料を眼前に見いだすように、同様に、すでに生成した社会は人間を、彼の存在をこの富全体において生産する、すなわち、すべてのかつ深い感覚をもった人間を、その社会の恒常的な現実として生産する」(P155)


否定の否定としての獲得は、こうして、原始共同体にみられるような限定的な獲得=「貧しく要求のない人間」の獲得ではなく、全体的・普遍的に人間的富をわがものとする獲得であり、労働による全面的な人間の自己実現である。(*)

(*)マルクーゼは言う「人間の生の発現はかれの生の外在化であり、人間の現実性はかれの現実性剥奪であるということの感性的表現にすぎないように、私的所有の積極的止揚は、単なる経済的止揚にとどまらない。すなわちそれは人間の全現実を積極的にわがものとすることである。」
「資本主義の事実状況の中では単に経済的あるいは政治的危機ばかりでなく、人間存在の破局こそが問題になっているのだ・・」
マルクーゼのこの提言は、最近の辺見庸氏の言説と重なって聞こえてくる。


26歳のマルクスはすでに、疎外形態そのものの中から疎外を止揚する力が生じることも見抜いており、資本主義の進展=人間の疎外の進展=人間性の危機の深化=人間の全面的な発達の可能性の拡大として躍動的に現実を把握していたのである。

一般にはあまりにも貧困なマルクス疎外論の理解に対して、読めば読むほどにマルクスが発見した諸事実、描いて見せた人間の発展史の全貌は、壮大で豊かであることがわかる。

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投稿者:eudaimonia
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投稿者:eudaimonia
ちろさん、ありがとうございます。
時々、こんな風に読書して思索したことを自分なりにまとめてみたくなるのです。
一般に理解されていることが本当にかかれていることとあまりにもかけはなれていることに驚き、今回はそこを中心に書いてみました。
マルクスの思想、共産主義の思想にはあまりにも誤解されていることが多いと思います。
あんちょこ本に頼らず、できれば原本を先入観なしに素直に読むことの大切さを感じてます。
投稿者:ちろ
むむう・・・拍手しようにも、ちろのザル頭はエッセンスをくみ取れなかった・・・っす(泣)。ごめんなさい。
             
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