学童集団疎開体験という私の戦争体験

2019/8/9 | 投稿者: shoji

SHOJIです

8月15日はポツダム宣言を受諾し、昭和天皇が敗戦を宣言した終戦記念日
である。
戦後74年経過して、この間、日本は平和憲法を守って戦争をしていない。
しかし、最近は憲法改正の声やアメリカ提唱の呼びかけ、防衛庁予算の拡大
(2020年概算要求5兆円)などきな臭い方向が生まれてきている。
終戦記念日に当たって、私自身が小学3年生時に長期戦争継続のための国策と
して実施された「学童集団疎開」の形態で太平洋戦争を経験したことを記録
し、「飽食の現代」では想像できない「食こそ わが命」の体験を書き、戦争の
悲惨さを提示したい。

         パート@

<1945年8月15日 終戦の日>
私はポツダム宣言受諾の昭和天皇による玉音放送を疎開先の大広間で聞いた。
「重要な放送があるから」と、われわれ生徒は先生から大広間に集められた。
中の湯(我々の学寮)には28名の生徒が生活していた。
電波の調子が悪く、はっきり聞き取れないものだった。玉音放送で印象に
残ったことは、初めて聞くやや元気のない天皇の声だけだった。
先生方から「犬死だ」「戦争に負けた」などの声で、私は戦争に負けたこと
が分かった。特別の感慨は残っていない。すでにその時から現在まで62年を
経過しているので、この程度しか記憶にない。しかし、私には「玉音放送」
の意味よりも、両親が1945年8月13日にはるばる東京から山奥の滝谷に「面
会」に来てくれていたことの方が重要であった。

<両親が面会に来た!>
8月13日に両親が面会に来てくれた。大変嬉しかったのを覚えている。
乾燥芋、乾パン、など食料品をたくさん持ってきてくれたことが何より嬉し
かった。「食がすべて」である。これまでも両親から小包で食料品が送られ
て来ていた。
両親が疎開先にやってきた目的は、やがて自分達は本土決戦と空襲で死ぬか
も知れない。家族五人の内兄と両親の三人は東京に残って「銃後」を守り、
姉と私は、姉を寮母ににして、疎開先で私と生活させて、生き残りを図る
ために先生に相談に来たのである。両親としては、私の様子を見てから
いろいろと決断するつもりらしかった。どうも東京空襲はすさまじい殺戮
の世界で、両親は死を覚悟していたようであった。両親は、この戦争が負
け戦らしいとは認識していたが、まだ戦争は継続されると考えていたよう
であった。だから両親にとっても、玉音放送は寝耳に水だったのである。

<当時の状況>
その背景を理解していただくために当時の状況を少し書いておきたい。
東京の下町は、1945年(昭和20年)アメリカ戦略爆撃機B29(当時私どもは
B29のことを「空の要塞」と呼んでいた)による3月10日の東京大空襲で10万
人が死亡した。
米国空軍司令官オドンネル将軍は、日本は木造家屋なので「爆弾」より
「焼夷弾」で焼き尽くす方が有利と判断したと何かで読んだ記憶がある。
戦闘員と非戦闘員を区別しない「無差別爆撃」である。これで東京の下町
は一夜にして焼け野原と化したのである。当時読んだ雑誌「子どもの科学」
の記憶によれば、B29は成層圏とよぶ1万メートル以上の上空を飛行する
ので、当時射程距離7000〜8000bの高射砲から迎撃されないこと、いわば
制空権を全く持たない日本軍に対して、米軍は悠々と爆撃できたのである。
かくて、5月10日の再度の爆撃で東京の下町は焦土化したのである。

<焼け残った我が家>
私の実家はJR上野駅から歩いて20分ほどの入谷にある。朝顔で有名な「恐
れ入谷の鬼子母神」の近くである。その一区画は50b道路と20b道路に囲
まれ、上野方面からの延焼をまぬがれて、焼け残ったのである。近くの
坂本消防署は、燃えている建物より延焼を防ぐため、燃えていない一区画
の建物群に放水したそうである。
3月10日、5月10日の空襲で、多くの人が焼死した。隅田川は焼夷弾による
火事で建造物が燃えるために起こった熱風を避けるため、川に飛び込んだ
人などの死体が累々と浮かんでいたと聞いたことがある。防空壕は爆弾には
有効だが、焼けつくす焼夷弾には危険で逃げ遅れて蒸し焼きにされた人たち
が多数亡くなったと聞いている。無差別爆撃の凄惨さである。疎開児童の
中でも両親がいなくなって孤児になる人が多数出てきていた。「こんな飯
江戸っ子が食えるか」のN君の両親は、死亡し、N君は戦争孤児になったので
ある。幸い、私の家族は全員無事で、家も焼失をまぬがれたのであった。
残念ながらN君の消息は分からない。

<敗戦2ヶ月後に疎開地から東京へ>
私は栄養失調になり、やせ、髪の毛は薄くなっていた。また、学寮で虱
(しらみ)が大量に発生し、寮母さんの点検で私の着ていたメリヤスの
下着の縫い目に、びっしりと虱の卵が張り付いているのを見て驚いたこ
とがある。「しらみつぶし」の語源よろしく、虱の成虫と卵はびっしりと
張り付くものである。手で一匹づつつぶして駆除するのは大変な作業であ
った。結局寮母さんがみんなの下着を集めて、熱湯消毒で退治してくれた
が、米軍が持ち込んだ虱駆除の特効薬DDTはまだなかったのである。
こんな状態なので、もう半年戦争が継続していたら、私は栄養失調で倒れ
ていたことであろう。
結局、両親は私を連れてすぐ帰ることはしなかった。両親だけで、急いで
東京に戻ることになった。私は学童疎開のメンバーとともに、その2ヶ月
後の1945年10月に東京に戻った。貨物列車で福島から上野駅に着いた時の
光景は鮮明に残っている。上野駅から私の家のある入谷町あたりまでほと
んど建物らしいものがない一面焼け野原であった。今でもこの光景は脳裏
に焼きついている。当時三ノ輪町にあるコンクリートの関東配電ビル(今
の東京電力)が見えていた。徒歩40分の距離がすぐ近くに見えたことも
異様な体験であった。


<終わりに>
昔の記憶は当てにならない。今思い出せることを書いたつもりだが、色々な
間違いが多々あると思う。機会を見て訂正したい。
しかし今は間違いを恐れず戦争の悲惨さを伝えることが必要と感じたのである。
この当時の私にとっては、生きることは、食こそすべてであった。
1)食の供給と安全の確保がまず第一に重要であること 
2)戦争がそれを脅かす。犠牲者は、子供など弱いものたちである。 
3)私たち家族を飢えさせない為に、両親が注いでくれた愛情に感謝 
4)我々学童のために身を挺して守ってくれた当時の先生や寮母さんに感謝 
5)孫はじめ若い人たちに、この悲惨な体験を二度とさせないようにする。 
6)いまが危険なとき。声を出す。

参考資料
1)「みんなで卒業」台東小学校、2006、「みんなで卒業」委員会、台東小
2)こどもたちの8月15日 2005 岩波新書編集部 岩波書店

注記・出典
@ 村山正治 食こそすべてー 私の集団疎開体験A―村山尚子編集 
「エンカウンター通信」2007年7月号、
A村山正治 食こそすべて 私の集団疎開体験@―村山尚子編集
「エンカウンター通信」2007年6月号 
➂今別府 哲志 「エンカウンター通信総目次」400号記念特集付録DVD                                                              
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