「道徳の教育は,耳より入らず,目より入るものと我輩の常に唱うる所にして・・・・(福沢諭吉)」と云い、服装、整理整頓、身だしなみ、マナーなど全てが道徳教育であると教えています。そして、私たちは神や仏ではありませんので、他人の気持ちを理解する上で、文章や言葉の使い方を大切にしたいと思っています。
先日朝日新聞に「
匿名ブログ『復興は不要』経産省官僚、身元ばれ閉鎖」と云う記事があり、内容の一部に思うところがあって書き込みます。
記事は「
・・・「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。同7月には「あましたりまであと3年、がんばろっと」などと、天下りを示唆する内容も記した・・・」とありました。
経済産業省は9月25日付けでブログ書き込みの人物(キャリア男性官僚51歳)を停職2ケ月の処分にしたとか、処分後は本人の言う「あましたり」なのでしょうか?
既に、ブログは閉鎖されていますから詳しい内容は知り得ませんが、言論の自由で「何を書いても良い」と思っている人がいるようですが、はたしてそうでしょうか。実際、ブログやツイッターで相当過激な言葉や考え方も見受けられます。
官僚の書いた内容はおそらく「仕事の憂さ晴らし」では・・・・と思いますが、やはり何を書いても良いと云う訳ではなく、そこには誰もが見ることが出来ると自覚したうえで書くべきだと思います。公道を裸で歩くのと同じではないかと・・・・・。
さて、言葉使いですが、「半沢直樹」が上司大和田常務に対して「罵声」を浴びせるようなドラマの一シーンを見て、当たり前のように感じた人がいたでしょうか。父親をこの常務によって殺されたと思ってみている視聴者は何とも感じなかったのかもしれませんが、実は組織の規律は「言葉使い」によって守られているのです。
職場は、色々な立場や役割で構成され、仕事をする時は上司や外部関係者、お客様など異なった立場の人との交流があり、相手に応じた話し方をマスターする必要があります。
お互いを理解しあうために、言葉は重要な役割を果たしているのです。相手の立場や役割、その時の自分の位置関係、話題の中心となる相手や状況などに応じて尊敬語や謙譲語を使って会話をすることで、人間性が表れ、組織が保たれていると思うのです。
安城デンパークにて:竹筒に入ったローソクの灯り

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