昨夜は遅れて居合の部に参加した。
清心流居合は鹿島・鹿取の太刀を基として大森流・英信流の流れを汲み、菊地宗家が戦時中の体験を踏まえて組み立てられたという。居合の部、立膝の部、奥居合の部、抜刀の部。どれもが本数も多く、奥が深い。そうして、常に体術やほかの武器とともに連携しながら学ぶことになっている。少年時代に私が空手を学んだ師は、刀を手に道場に現れ「避けてみろ」と突然ニ尺三寸を振り出すことがあった。最初は横真一文字、続いて真向上段からの切り下げ。血振るい、納刀。もともと手取り足取り教え込む師ではなかったので、それは貴重な教授の時間でもあった。太刀を避けながら、また、見取稽古で捌きや様式を覚えなければならなかったのである。
宗家は伝書で居合の居とは、常の事、いついかなる場合でものこと、とされている。合とは、それに対応する臨機の動き。つまりは、行住坐臥、平常心で臨むこと、その心胆を練ることが居合の本義であろうか。道場という小宇宙に端座し、ニ尺三寸を以って生死を明らかにする、その究極に洗練された形が居合だ。まさに武門の表芸、作法様式美の代表格といえるだろう。
宗家はこうも述べられている。「形に負けてもよいから、心に負けるな」、そうして「決して諦めるな」がいつもの口癖であったという。


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