2012/11/9
おせいさん 本
神戸文学館でいま田辺聖子展が開催されています。
12/25まで。
おせいさんの神戸交遊録
昨日、編み物の上手なKさんと、先日バラ公園へご一緒した和服のTさんと行きました。
自筆の原稿や、手作りの箱、短冊のようにあちこちに貼ってある
おせいさんの男と女の人生のアフォリズム(箴言)。
大阪・神戸=関西の匂いがプンプンしていました。
独特のユーモア、軽妙洒脱な語り口。
私たちが入って行くと、どこかの新聞社の人が学芸員の女性に取材をしていました。
展示物をあちこち見ながら、神戸でのおせいさんの生活を詳しく聞いておられました。
メモをとりながら。
学芸員の方にお目にかかるのは初めてでしたが、多分、いつも「神戸文学館だより」に記事を書いておられる方だろうと思いました。
取材中の会話から分かったのは、諏訪山にあった新居は、週末だけで、
聖子さんは尼崎の実家で仕事、かもかのおっちゃんは神戸市新開地というディープなところにある診療所で働き、4人の子供と父親と共に暮らしていたとか。
お父さんが亡くなってから、聖子さんが新開地の診療所で一緒に住むようになり、
診察室の裏の三畳の仕事場で執筆に励んでいた。
「面白半分」という雑誌も展示してありましたが、その名を連ねる錚錚(そうそう)たる顔ぶれ。
1971年から10年間、12人の編集長が交代で作っていた、元祖サブカルチャー月刊誌。
立ち上げたのは佐藤嘉尚。歴代の編集長は、
吉行淳之介、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光春、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一。
司馬遼太郎とも交流があったようです。
佐藤愛子との対談、桐島洋子、津村節子、小松左京、筒井康孝、陳舜臣、桂米朝・・・・
なんだか楽しそうな写真がいっぱい。
色紙に筆で「達観というのは、心中〈まあ、こんなトコやな〉とつぶやくことである」と
なかなかいい字で書いてありました。
「気張らんと まあぼちぼちに いきまひょか」の色紙もいい。
おせいさんのアフォリズム(箴言)で一番気に入ったのは
「美しく老いるのはむつかしい。
優しく老いるのは、よりむつかしい。
可憐に老いるのは更にむつかしい。」 (『人生の甘美な滴り』)
美しく老いておられる和服のTさんと、Kさん。
可憐に老いるというのは、おせいさんなのでしょうか。
神戸まつりで着たという、華やかなピンクのドレス。
スヌーピーを愛している人。
ー生きることの楽しさと人間のおもしろさ」を追求し続ける作家ー
とチラシにありました。
納得。
帰宅してから、友人に藤本義一さんの追悼文が新聞に載っていたと教えてもらいました。
*******
カモカのおっちゃんが、『物書いて生きていく、ちゅうのは、つらいことでっしゃろ。・・・な、そうでっしゃろ、見ててもわかるわ』と口にされた。
「ギイッちゃん」は、その物書きの戦場をいっしんに走り抜けた戦友でした。
(朝日新聞より)
*******
ご家族でのお交わりがあり、頼りになさっていた藤本義一さんの死。
おせいさんは、どんなに悲しみのうちにおられるかと思います。

ぶどうの樹さんからお借りしました。
ありがとうございます。
そういえば、何年か前に、田辺聖子さんがテレビの録画撮影でバラ公園へいらしたとき、偶然お会いしたことを思い出しました。1981年に妹さんがいるからと、伊丹へ転居。
お母さんと、カモカのおっちゃんの介護をなさいました。
薔薇の花が大好きなおせいさん。
「死」の対極にあるものは「生」ではなく、「恋」である
とおせいさんの箴言に書いてあった。
うーん、そう来たか、おせいさん。
たくさんの魅力ある人たちに囲まれて過ごす人生、
話の尽きないカモカのおっちゃんとの出会い。
4人の子育て。
母が元気だったら、いっしょにおせいさんの展示を見にいったことだろうと思いました。
Tさんは、父と同じ歳、そしてなんと一人息子さんと私は、同学年であることが分かりました。
「私は活字が好きなのです」とおっしゃるTさんと、母が重なりました。
孝行したいときに、親はなし。
この言葉は、やはり真実だったと、身に沁みます。
(懺悔)
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12/25まで。
おせいさんの神戸交遊録
昨日、編み物の上手なKさんと、先日バラ公園へご一緒した和服のTさんと行きました。
自筆の原稿や、手作りの箱、短冊のようにあちこちに貼ってある
おせいさんの男と女の人生のアフォリズム(箴言)。
大阪・神戸=関西の匂いがプンプンしていました。
独特のユーモア、軽妙洒脱な語り口。
私たちが入って行くと、どこかの新聞社の人が学芸員の女性に取材をしていました。
展示物をあちこち見ながら、神戸でのおせいさんの生活を詳しく聞いておられました。
メモをとりながら。
学芸員の方にお目にかかるのは初めてでしたが、多分、いつも「神戸文学館だより」に記事を書いておられる方だろうと思いました。
取材中の会話から分かったのは、諏訪山にあった新居は、週末だけで、
聖子さんは尼崎の実家で仕事、かもかのおっちゃんは神戸市新開地というディープなところにある診療所で働き、4人の子供と父親と共に暮らしていたとか。
お父さんが亡くなってから、聖子さんが新開地の診療所で一緒に住むようになり、
診察室の裏の三畳の仕事場で執筆に励んでいた。
「面白半分」という雑誌も展示してありましたが、その名を連ねる錚錚(そうそう)たる顔ぶれ。
1971年から10年間、12人の編集長が交代で作っていた、元祖サブカルチャー月刊誌。
立ち上げたのは佐藤嘉尚。歴代の編集長は、
吉行淳之介、野坂昭如、開高健、五木寛之、藤本義一、金子光春、井上ひさし、遠藤周作、田辺聖子、筒井康隆、半村良、田村隆一。
司馬遼太郎とも交流があったようです。
佐藤愛子との対談、桐島洋子、津村節子、小松左京、筒井康孝、陳舜臣、桂米朝・・・・
なんだか楽しそうな写真がいっぱい。
色紙に筆で「達観というのは、心中〈まあ、こんなトコやな〉とつぶやくことである」と
なかなかいい字で書いてありました。
「気張らんと まあぼちぼちに いきまひょか」の色紙もいい。
おせいさんのアフォリズム(箴言)で一番気に入ったのは
「美しく老いるのはむつかしい。
優しく老いるのは、よりむつかしい。
可憐に老いるのは更にむつかしい。」 (『人生の甘美な滴り』)
美しく老いておられる和服のTさんと、Kさん。
可憐に老いるというのは、おせいさんなのでしょうか。
神戸まつりで着たという、華やかなピンクのドレス。
スヌーピーを愛している人。
ー生きることの楽しさと人間のおもしろさ」を追求し続ける作家ー
とチラシにありました。
納得。
帰宅してから、友人に藤本義一さんの追悼文が新聞に載っていたと教えてもらいました。
*******
カモカのおっちゃんが、『物書いて生きていく、ちゅうのは、つらいことでっしゃろ。・・・な、そうでっしゃろ、見ててもわかるわ』と口にされた。
「ギイッちゃん」は、その物書きの戦場をいっしんに走り抜けた戦友でした。
(朝日新聞より)
*******
ご家族でのお交わりがあり、頼りになさっていた藤本義一さんの死。
おせいさんは、どんなに悲しみのうちにおられるかと思います。

ぶどうの樹さんからお借りしました。
ありがとうございます。
そういえば、何年か前に、田辺聖子さんがテレビの録画撮影でバラ公園へいらしたとき、偶然お会いしたことを思い出しました。1981年に妹さんがいるからと、伊丹へ転居。
お母さんと、カモカのおっちゃんの介護をなさいました。
薔薇の花が大好きなおせいさん。
「死」の対極にあるものは「生」ではなく、「恋」である
とおせいさんの箴言に書いてあった。
うーん、そう来たか、おせいさん。
たくさんの魅力ある人たちに囲まれて過ごす人生、
話の尽きないカモカのおっちゃんとの出会い。
4人の子育て。
母が元気だったら、いっしょにおせいさんの展示を見にいったことだろうと思いました。
Tさんは、父と同じ歳、そしてなんと一人息子さんと私は、同学年であることが分かりました。
「私は活字が好きなのです」とおっしゃるTさんと、母が重なりました。
孝行したいときに、親はなし。
この言葉は、やはり真実だったと、身に沁みます。
(懺悔)

2012/11/13 18:59
投稿者:モネ
2012/11/13 17:12
投稿者:やまおじさん
おひさしぶりです。
「面白半分」は、おもしろい雑誌でしたね。
おせいさん、私も好きです。
一時期、書かれたもの(おもに軽妙洒脱なエッセイ)を夢中で読んでいました。30年ぐらい前かなあ。
その頃、職場に神戸出身の女性がはいってきて、枝雀さんとかおせいさんの魅力を教えてもらいました。
かもかのおっちゃんも、だいぶん前に亡くなりましたね。
孝行をしたいときには親はなし…いまの私もおなじ心境です。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/
「面白半分」は、おもしろい雑誌でしたね。
おせいさん、私も好きです。
一時期、書かれたもの(おもに軽妙洒脱なエッセイ)を夢中で読んでいました。30年ぐらい前かなあ。
その頃、職場に神戸出身の女性がはいってきて、枝雀さんとかおせいさんの魅力を教えてもらいました。
かもかのおっちゃんも、だいぶん前に亡くなりましたね。
孝行をしたいときには親はなし…いまの私もおなじ心境です。
http://yamaoji.cocolog-nifty.com/blog/
おせいさんと私の母は同年齢だったと思います。
ときどき、おせいさんの家の前を通ります。
「『面白半分』の作家たち」(佐藤嘉尚著)を買いました。
あのころへ、戻れるような気がします。