石川啄木

2017/2/21  15:28 | 投稿者: masuko

 自称「ドナルド・キーン先生の弟子」として少しずつ読み進めていますよ。

 短歌も俳句も自分で詠むということはもちろんないし、作品を鑑賞しても特に「へーうまく作るもんだなあ」って思う程度だったり、古語だったりすると「えっと・・意味不明??」だったり・・・。

 そんな程度でホント、キーン先生には申し訳ないのですが、啄木さんについて読んでみました。

 これは先生の極最近の研究です。一年前に発行されいます。

 「天才。
 
 嫌なヤツ、変なヤツ。

 いつもとっても貧乏。

 こんなにいやなヤツなのに、家族がなんとか食べられるぐらいの援助をしてくれる友人がいるっていのはそういう魅力があったんだろうな。

 結核っていうのは本当に大変な病気だったんだなあ。
 (母は本人の一ヶ月前に妻は一年後に結核でバタバタと亡くなっています)」


 というのが、読後の印象、感想かな。

 最後の2ページでキーン先生が書いているものを少し抜粋してみます。


 啄木は、千年に及ぶ日本の日記文学の伝統を受け継いだ。日記を単に天候を書き留めたり日々の出来事を記録するものとしてでなく、自分の知的かつ感情的生活の「自伝」として使ったのだった。啄木が日記で我々に示したのは、極めて個性的でありながら奇跡的に我々自身でもある一人の人間の肖像である。啄木は「最初の現代日本人」と呼ばれるにふさわしい。
 
 「極めて個性的でありながら奇跡的に我々自身でもある一人の人間の肖像」

 なかなかすごい言葉ですね。

 嫌なヤツ、変なヤツと思って読んだ啄木の日記に描かれている啄木の姿は私自身でもあったということです。

 ちょうど、時々読むブログ(本郷綜海さんのブログ)の中に

「あなたはあなたが人に見るものを自分のものとしてみる勇気がありますか?私もチャレンジ中です!」

 という一文があってシンクロしました。

 続けてもう少しキーン先生の言葉

 日本で最も人気があり愛された詩人だった三十年前に比べて、今や啄木はあまり読まれていない。こうした変化が起こったのは、多くの若い日本人が学校で「古典」として教えられる文学に興味を失ったからだった。テレビなどの簡単に楽しめる娯楽が、本に取って代わった。日本人は昔から読書家として知られていたが、今や本はその特権を剥奪されつつある。多くの若い男女が本を読むのは、入学試験で必要となった時だけである。

 啄木の絶大な人気が復活する機会があるとしたら、それは人間が変化を求める時である。地下鉄の中でゲームの数々にふける退屈で無意味な行為は、いつしか偉大な音楽の豊かさや啄木の詩歌の人間性へと人々を駆り立てるようになるだろう。啄木の詩歌を読んで理解するのは、ヒップホップ・ソングの歌詞を理解するよりも努力が必要である。しかし、ファースト・フードから得られる喜びには限度があるし、食欲はいとも簡単に満たされてしまう。啄木の詩歌は時に難解だが、啄木の歌、啄木の批評、そして啄木の日記を読むことは、単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描き出して見せるものは一人の非凡な人物で、時に破廉恥ではあっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとって忘れ難い人物となる。


 キーン先生が日本の若者たちに寄せる期待、想いが感じられる。

 こういう想いで90歳を過ぎてもなお、たくさんの資料を読み解かれ整理しまとめ、本を書かれているのだということが本当にありがたく感じられる。

 日本を日本の文化、文学を愛してやまないキーン先生。

 いつまでもお元気でいてほしい。

 せっかくなんで啄木の短歌を3首。(「一握の砂」より)

 よごれたる足袋穿く時の
 気味わるき思ひに似たる
 思出もあり


 たはむれに母を背負ひて
 そのあまりに軽きに泣きて
 三歩あゆまず


 何がなしに
 頭のなかに崖ありて
 日毎に土のくづるるごとし 



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