能の見える風景 多田富雄

2014/12/1  11:48 | 投稿者: masuko

 能についての多田さんの造詣の深さ、文章の鋭さもさることながら、多田さんという人そのもの自体が凄いねえ。
 
ウィキより

1934年3月31日 - 2010年4月21日 日本の免疫学者、文筆家である。東京大学名誉教授。

茨城県結城市出身。旧制茨城県立水海道中学校(現・茨城県立水海道第一高等学校)・茨城県立結城第二高等学校を経て、千葉大学医学部進学、在学中に安藤元雄、江藤淳らとともに同人雑誌『purete』に詩などを寄稿。千葉大学医学部第二病理学教室に勤務、1964年医学博士(千葉大学、題は「遷延感作ウサギにおける抗体産生の変貌」 。のち教授、1977年東京大学医学部教授、1995年定年退官、東京理科大学生命科学研究所所長。[1]。1971年に抑制(サプレッサー)T細胞を発見するなど免疫学者として優れた業績を残す(現在ではサプレッサーT細胞の存在には疑問符がつけられている)。野口英世記念医学賞、朝日賞(1981年)[2]、文化功労者(1984年)を受賞[1]。瑞宝重光章(2009年)。
50代になって執筆活動を多く行い始め、『免疫の意味論』(青土社、1993年)で大佛次郎賞[1]、『独酌余滴』(朝日新聞社、1999年)で日本エッセイスト・クラブ賞、『寡黙なる巨人』(集英社、2007年)で小林秀雄賞を受賞。
能の作者としても知られ、自ら小鼓を打つこともあった[1]。謡曲作品に脳死の人を主題にした『無明の井』、朝鮮半島から強制連行された人を主題とした『望恨歌』、アインシュタインの相対性理論を主題とした『一石仙人』、広島の被爆を主題とした『原爆忌』がある。
2001年5月2日、滞在先の金沢にて脳梗塞を起こし、一命は取り留めたが声を失い、右半身不随となる。だが執筆意欲は衰えず、著作活動を続けた[1]。晩年まで文京区湯島に在住した。
2006年4月から厚生労働省が導入した「リハビリ日数期限」制度につき自らの境遇もふまえて「リハビリ患者を見捨てて寝たきりにする制度であり、平和な社会の否定である」と激しく批判し、反対運動を行った。2007年12月には『わたしのリハビリ闘争 最弱者の生存権は守られたか』(青土社)を刊行した。
2007年には親しい多くの知識人とともに「自然科学とリベラル・アーツを統合する会」を設立し、自ら代表を務めた。
2010年4月21日、前立腺癌による癌性胸膜炎のため死去[1]。76歳没。関連著作が、没する前後にはいくつか出版された。


 ここにある多田さんが作能された「原爆忌」は声を失い、半身不随になってからの作品だもの。今回読んだものも病後のもの。

 後がきから

 三日目に意識が戻ったときは、体が麻痺し、声を失っていた。叫んでも声はでない。(中略)そんな中で、まだ自分であるかどうかを確かめるために、声のない謡を恐る恐る語ってみた。初めは「羽衣」の一節を口ずさんだ。声は出なかったが、全部覚えていたので安心した。これで、私は生きていることを実感した。大げさかもしれないが、能が私を精神的に救ったのである。(中略)死地を脱した後も、能は闘病中の私に大きな心の支えになった。どんなに苦しい、絶望の日でも、能の一節を思い浮かべて耐えた。(中略)こんなに謡を「いいなあ」と思って謡ったことはなかった。それは皮肉にも声を失ってからのことであった。(中略)しかし、音を想像することは出来る。古人は「心耳で聴く」といった。「心身」で鼓の音を聞き、無音の謡曲を謡う。すると見えない舞台に舞が見えてくる。私はともすると絶望的になる入院中も私の「脳の中の能舞台」で、いくつも能の名曲を鑑賞した。不思議に心が休まり、苦痛による精神の崩壊を回避できた。

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