またまた間のあいた
オーストラリア旅行記 初めての海外旅行 ケアンズ・タスマニア、
(第一回から読んでくださる方はコチラからどうぞ)いよいよケアンズからタスマニアに飛ぶ編なのですが…。
実はここで小さな(私にとっては大きな)事件がありました。
この出来事がたぶん私の人生を変えた転機の一つだったのは間違いありません。
そのことを思い出すと今でもなんだかもやもやするし、自分のしたことが間違っていたのか、それともあれで仕方なかったのか、でも…とぐるぐるしてしまうのでちょっと時間が空いてしまいました。とりあえず、書き始めます。複雑なんですけどね。
連載 第12回
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ケアンズからタスマニアへ向かう前日、
「ブリスベン暮らし」のKYOさまと、その息子タカヒロ、そして我が家のオットはもう日本へ帰った後だったので当時6歳半、5歳半、そして2歳半だった子どもたちと私の計6人でケアンズの街をブラブラとしていました。大きなショッピングモールで、子どもたちは素敵な風船をもらったのです。
それまで手にしたことはもちろん、見たこともなかった、大きくて綺麗な色をした素敵な風船。子どもたちの喜び様はそれはそれはすごいものでした。狂喜乱舞とはあのこと。抱いて寝んばかりの喜びぶり。
だけど、私はちょっと不安だったのですよ。だって翌日はタスマニアに向けて旅立つ身。飛行機に風船は乗せられるんだろうか。
その夜、子どもたち(特に6歳だったブー)に、話をしました。
1.風船はもしかしたら飛行機に乗せてもらえないかもしれないこと。
2.もしそう言われたらそこで風船を置いて行かなくてはいけないこと。
3.それでも私たちは次の目的地に向かわなければならないこと。
ブーは見る見る蒼白になり、目に涙を溜め、絶対にイヤ!この子を連れて行く、かわいそう!とだだをこね始めました。予想されたこと。でもね、もし飛行機の決まりだったら、どうしてもダメなんだよ。もしも空港でダメだって言われたら諦めなくちゃいけない。もしそれが約束できないなら、今ここでこの風船にバイバイしよう。
泣きながら風船を守ろうとするブーに何度も何度も繰り返し話して聞かせ、どれだけの時間をかけたか、とうとう彼女は納得しました。
「もしも空港でダメって言われたらバイバイする」
翌朝…、空港へ向かう私の心は重かったのです。風船のことが心配でした。いざ空港に着き、心配そうに様子を見守る子どもたち。主にKYOさまが手続きをしてくださったのですが(私はまったく英語が話せなかったので)大きな風船を何個も持ってカウンターに着いて手続きをしたのに、何も言われませんでした。
でもここで期待して、乗るときにダメって言われたら大変です。
私は意を決してカウンターに進み、風船を指さし「OK?」と訊きました。相手は「何が問題なの?」というふうに肩をすくめ、いいわよ、というようなそぶりを見せました。
そこで初めて子どもたちに「大丈夫だって!」と告げたわけですが、その時のブーの嬉しそうだったこと。本当に、本当に私は胸をなで下ろしたのです。ぐずられたら困ると思ったわけではありません。私は彼女の気持ちを傷つけたくなかった。
うちの子どもたちは動物はもちろん、ぬいぐるみだって、決して逆さに持ったり投げたり腕を引っ張ったりできない子たちです。
(実は私もそうです)風船も同じように本当に大切に思っていたのがわかっていました。ここで風船を置き去りにすることはきっととても辛い思いをさせることになると思い、だからこそ昨夜からあれほどの予防線を張っていたのでした。
その飛行機に乗り込むまでは半信半疑だったものの、実際、その後もすれ違う人が風船を見てニコニコしたり、空港のゲートから飛行機に無事乗り込む、その時にさえカンタスのフライトアテンダントが「良い風船ね」なんて褒めてくれさえしたので、私はやっと安心しました。
ところで、私は気付いていなかったのですが、私たちの乗った便は便名はケアンズ−タスマニアの直行便のように書いてありましたが、実際は途中のブリスベンとメルボルンで2ストップの飛行機でした。同じ飛行機の同じ座席へ戻るのですが、とにかく一旦飛行機を降りてロビーで待たなければならないのです。
ブリスベンで一旦全員が風船と共に飛行機から降り20分ほどロビーで過ごしてまた乗り込みます。そしてメルボルンで事件は起きました。
続く…にしたいところだけど、この記事、もう引っ張りたくないので無理矢理続けちゃいますね。
ブリスベンの空港と同じように飛行機を降りたのですが、しばらく経って、案内と共に同じ飛行機に戻ろうとした時、その空港から担当になったらしい見慣れないフライトアテンダントの女性が風船を指さすと、吐き捨てるように「ノー」と言ったのです。KYOさまと他の子どもたちは既に飛行機に乗り込んだ後で、列の後ろの方にいた私とブーだけが取り残されていました。
私は英語が話せませんでした。でも人の表情はわかりますよ。その女性V(今でも名前も顔もハッキリ覚えています。頭文字はVなのでVと呼び捨てます)の意地悪そうな顔は今でも目に浮かびます。私と目も合わせません。ニコリともせず、「とにかくその風船をこのゴミ箱に捨てろ」と言いながら他の客を次々に通して行きました。ブーはパニック、私もパニックです。「何故?」と訊きました。聞いたものの相手の答えは聞き取れず。向こうだってわからせようという態度なんか全然ないんです。「ダメなものはダメ!」というそれだけ。言葉の話せない日本人観光客を頭からバカにしているのが見え見えでした。
次第にパニックになっていくブーと私は風船を捨てることを強硬に拒否し、ついに列の最後になってしまいました。
心の中では「だって、あなたたちケアンズでOKって言ったじゃない、同じ飛行機で同じ座席に戻るのに、他の荷物は座席に残してさえあるのに、どうして風船だけ持ち込んじゃいけないの?」と思っていましたが、言葉は出ません。英語が話せたら、英語が話せたら…!
私はもうあのときブーに「大丈夫だよ」って言ってしまったんです。ブーは私の言葉を信じて、すっかり安心しきっていたんです。だったらケアンズで言って欲しかった。ここまできて、風船をゴミ箱に捨てなければならないかもとわかってブーは怯えていました。
私とそのVの間に流れる険悪な空気に驚いて別のアテンダントが間に入ってくれました。でもどうやらVの方が立場が上の様子。フライトアテンダントがなだめるように何か説明してくれたのですが、私には理解もできないし、納得もできません。
遂にVは「それを捨てなかったら飛行機に乗せないわよ!」というようなことを言いました。瞬時のことでしたが、私は「たかが旅行より、ここで娘を裏切らないことの方が大切!」と思い「わかった、じゃあ私たちは乗りません!」と言いました。タスマニアに目的があるわけじゃない。子どもたちとの楽しい旅行が目的なのです。
たかが風船?いや、違いました。それは娘の心であり、娘の私への信頼でもあったから。
ところがそう簡単にはいかず、なにしろチェックインを済ませて、ケアンズからメルボルンまで来てしまっているので、相手もここで私を降ろすというわけにはいかなかったようでした。(預け入れの荷物があったわけじゃないんですけどね)
あまりに揉めているために、とうとう機内からKYOさまが通訳に呼ばれました。もうびっくりさせちゃった。呼び出されて何事かと思ったら私もブーもゲートで泣いてるんだもんね。
優しい方のアテンダントさんから状況を聞いてくれたKYOさまが、
「あのね、風船を持って客室に入ると、気圧のの関係で風船が割れることがあって、そうするとその音を爆発音か何かと聞き違えて乗客がパニックになるおそれがあるから風船の持ち込みは禁止されているんだって。」
と教えてくれました。その時初めて、そういうことか、と理解しました。しかし、それなら同じ航空会社の同じ便名の同じ飛行機、同じ機材、しかもほんの少し前までその飛行機に風船と一緒に乗ってきて、しかもフライトアテンダントが褒めてくれたり、親切に荷物入れに入れてくれたりしていたのは何だったの?ということになります。
とにかく私には納得できませんでした。するとナイスな方のアテンダントが「機長に聞いてきてあげるから」と言ってくれました。全ては機長の判断になるので、機長がOKと言えばOKだと。
しばらく待ちましたが、戻ってきた彼女の言葉はNO。「ごめんなさいね。」と彼女は言ってくれました。
その間、Vの方はずっと憎々しげにチラッとこちらに視線を投げるだけ。完全無視の態度です。要するに彼女の虫の居所が悪かったために意地悪をされた、そうでなければ普段は暗黙の了解で通している、ということなんじゃないでしょうか。前の飛行機ではその機長さえ(別の人でしたが)風船にニコニコしてくれたんです。
でも正面から「風船を持ち込みたいと言っている乗客がいるがYESかNOか」と訊かれればそれは規則上、NOと言うしかない、そういうことなのだったのだろうだと、振り返って思います。
もう折れるしかありません。娘に申し訳なくて、英語の話せない自分が悔しくて、怒りに震えて私は泣きました。ゴミ箱に捨てろ、というVの指示には従わず、娘をなだめながら風船の空気を抜き、大切に持って飛行機に乗り込みました。
食事のサービスで私たちの席に回ってきたのはVでしたが、私は彼女をにらみつけて今度はこちらが「NO」と言いました。
飛行機は無事タスマニアのホバート空港に着き、Vが立っていた出口で、私は彼女に、ずっと心の中で準備(辞書まで引いて)していた言葉を投げつけたのでした。
「I will NEVER forget your face!]
いい加減怖ろしい女ですな、私ってば。
これが私の、
英語を勉強するようになったきっかけです。旅行中もいろいろ楽しいことがあったし、英語を話せるようになりたい、とも思ったけれど、このとき私は
「いつか絶対英語を話せるようになってやる!」と
誓いました。子どもたちを守るんだ!言葉ができないばかりにこんなヤツに負けてたまるか!と。なんともネガティブなモチベーションですが、災い転じて福となすってヤツですか。
その後はNHKのラジオ講座や市の公民館でやっている無料講座を見つけてはなんとか英会話の勉強。そして何年も経ってアメリカへ移住してきて無料のESLクラスを見つけると、3年間やむを得ない事情の時以外はほぼ皆勤しました。たった1日を除いては。その1日というのは、通い始めてしばらく後、あまりの英語のストレスに、ESLの駐車場の車の運転席でボロボロ泣いて、「もうダメだ、今日は耐えられない」と逃げ帰った日。ノイローゼに近かったです。家とESLの往復だけで精一杯。ガソリンを入れることさえ怖ろしくて。
(無人と思いきや、上からスピーカーで声をかけられたりするんですよね)どうしても「わからなければわからないでいい」とは思えなかった、ああ辛かった日々!それだけ苦労してその程度かい( ̄▽ ̄;)<私
あんなにストレスやプレッシャーを感じたのもみんな、1997年の1月12日に起きたこの事件がトラウマになっていたからなんですね。英語ができない自分が許せなくて。
ところが一旦、子どもたちの英語力に心配がなくなった途端…つい最近のことですが…英語の勉強をしなくては、という強迫観念が見事に落ちてしまいました。今は別人のようにダラダラしている私ですのでどうぞご安心くださいませ。
to be continued...
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