2004/5/6

黒衣と白衣 その7  

 疲れ過ぎだ、と改めて思い、力なく笑った。それでも、誰でもそう
なんだからという言葉に手を引かれながら動いた。唯一のほっとする時間は、
患者の傍らにいる時間だった。淡く淡く、そこにいるのが精一杯の麻衣は
その日の手術が終わり、術後の採血をして検査室に提出し、夕暮れの空を
見に屋上へ上がった。何も死ぬ決心からでなく、ただ空を見たいだけ、と
自分に言いながら階段を昇り屋上に出た。

 西の空の夕日に、何故か涙がほろほろこぼれた。何ヶ月か前の、
泣けなかった日のことを思い出してさらに泣いた。今なら、あの
亡くなった方との別れがとても悲しいと思えた。麻衣は声を殺し、
空に向かって泣き続けた。

「僕には、どうすることもできませんよ、」

 ふいに声がして顔を上げると、黒衣の人だった。無意識に、この人を
心の中で呼んでしまっていたような気もする。不思議に今日はくっきりと
姿が見え、声も耳に届いた。オペ着のまま体育座りする麻衣の隣に腰掛け、
黒衣の人はまっすぐ、夕日を見た。

「あなたはまだ、自ら死ぬことも、過労死することもできません、
近くにありすぎて心が死に対して慣れてしまっても、そんなに簡単には
死ねないのですよ、」

 黒衣の人は諭すようにゆっくり生を宣告した。

(僕も、そうですが。)

と俯き、小さくこもった声が心に届く。

「この救急病院に勤め出してから、僕は19年経ちます。まだキャリアが
浅いんです。」

 死神が、病院ごとにいるとは麻衣も知らなかった。

「でも、僕が見えたのは、あなただけみたいです。よっぽど、
魂がもともと体から離れやすい体内に流れる時間ののんびりした
人にしか僕らは見えないし、救急病院にはまずそういう人は
いませんから」

「…」

 黒衣の人は続ける。

「---僕は、慣れないことに決めたんです。一回一回初めてみたいな
気持ちで立ち会うことに、決めたんです。ぎりぎりまで医者が救命する
方針の時は僕も魂を励まして頑張れ、頑張れ、もう一度息をするチャンスが
あるかもしれないと言い、ゆっくり看取る時には、静かに寄り添って何も
心配ないと最後の瞬間まで伝えることにしたんです。」

 黒衣の人は、きっぱりとそう言った。
それは、自分がやることを思えば、相当ハードなことと想像された。
ものすごく一生懸命な声援や、亡くなった後のたくさんの涙を思い返す。



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