
見上げれば、散り始めの桜の彼方に
十六夜(いざよい)の月が。
いや、レモンのように欠けているようにも見えるから、あるいは十七夜の立待月だったかも知れない。
十六夜はわづかに闇の初め哉
芭蕉
[満月を過ぎた十六夜。わずかながらにでも月は暗闇に向かって欠け始める最初の夜だ。]
いずれにしても50歳を過ぎた男には、なかなか味わい深い句だと思っている。
そう、盛りを過ぎて、少しずつ死というものに親しみをおぼえていくお年頃。
先日は西行の詠った満月に桜というのを紹介したので、と言うわけでもないのだけれどね。
もう忘れちゃってたりしてない?
そう、この歌ね。
願わくは
花のもとにて春死なむ
その 如月の望月のころ
西行
十六夜に話しを戻そう。
十六夜は「いざよい」古くは「いさよい」と読まれる。
なんでよ?
もともと「いざよい」とは「ためらうこと」「ためらっている状態」を指す言葉なんだそうで、十六夜の月は「欠け始めたのか、まだ欠けていないのか」判断を“ためらう”ような月であることから「いざよいの月」と読まれるようになったんだと。
「昨日よりもっと満ちた月を待っていると、昨日よりやや遅く“ためらう”ように少し欠けた月が出てくるから」との説もあるんだそうだけど、どちらの説もなかなか味わい深い。
暦雑学の補足ってとこの解説がなかなかわかりやすくてお気に入りなのだ。

9日の夕方撮った写真なんだけど、散り始めと欠け始めの切なさが重なるのを見て、過ぎゆく春の宵を密かに惜しんだのだった。
いや、この日は、ハードスケジュールでしたよ。
おかげで、昨日今日とぐったりしてます。
だんだん無理が利かなくなるねぇ。
この日は3時間ほど寝て、9時に石神井公園に撮影の立ち会いに出かけたんです。

山桜が満開で、その微妙な色合いを満喫してきましたよ。
今週末まで何とかもちそうな気配。

今書いてる「自然のカケラ」に、出版社の方でどうしても子どもを入れたいと言うことで、まぁ、撮影に立ち会うことにしたんですけどね。
初めは緊張してた子たちも、だんだんいろんな遊びを思いついていい感じでした。

途中ゴイサギのお食事にも遭遇したし。
ウナギを捕まえて丸飲みにしちゃいましたよ。
ウナギの血液には、確か
イクシオトキシンとか言う毒があったと思うんだけど、大丈夫なんかしらねぇ?

ところで、
石神井公園には、天然記念物が少しばかり生き残ってるって知ってました?
これ、ミツガシワです。
野草が好きな人なら知ってると思うけど、高山地帯の湿地に行かなくちゃ普通は見られない代物です。
氷河期の生き残りの植物でね。
かつては豊富な湧き水のおかげで、夏でも水が冷たくって、そのおかげで氷河期の生物相がごっそり生き残ってたんですよ。
それが、今では周囲の森が切り開かれて宅地化が進んだおかげで、湧き水もほとんど涸れて水温が上がったために絶滅が進んで、とうとう公園の一角に移植されたほんのわずかな植物が残されているだけになっちまいやした。
一昨年見に行ったときと比べて、明らかに減ってましたねぇ。
岸辺に近いところとか、すっかり無くなってて、盗掘かも知れないねぇ。(涙)
その後、とんぼ返りで池袋に戻って生物学哲学とかいう講演を聴いてきました。
いやまぁ、刺激的でやんした。
講演要旨を紹介したページをリンクしておきます。
日本生物地理学会第61回年次大会シンポジウム
生物学哲学からみた生物の進化と系統
日本生物地理学会 第61回年次大会 ミニシンポジウム
次世代にどのような社会を贈るのか?

種ってのはどんなものなのか、はたまた実在するのかなんて言うようなお話しで、面白かったのがこれ。
昆虫では、遺伝的にかなりかけ離れた特徴を持っていて、交配などの遺伝的な交流がないのに形態的に全く変わらないグループとかがあるってな話しは、だいぶ前に聞いてはいたけれど、まさかシカでもこんな事があるとはねぇ。
南日本と北日本では、ニホンジカは遺伝的に異なる2グループに分かれているんだってさ。
だけど、外見には違いがない。
以前、僕の掲示板でも書いたことがあったけど、おそらくこういう例ってのは普遍的なことで、地方ごとの生物集団の単位ってのが事実上の遺伝的なまとまりなんだってこと。講演していた人が言ってましたけど、僕たちが種と呼んでいるものは実は属や科のレベルのような大きなまとまりなんだってな話しになるんですよね。
こういう事が明らかになってくるにつれて、お手軽に造られてるビオトープの弊害ってのもあからさまになってくるんだろうねぇ。
もっとも、それじゃ手遅れなんだけどさ。
くれぐれも、量産されているビオトープ用?プラグ苗なんか使わないでくださいね。
もちろん、メダカだけじゃなくってね。
あと面白かったのは、移植技術について。
九州大学のキャンパス移転に伴う工事で実施された手法やら色々を紹介してくれてました。
もちろん、問題がないわけではないんですが、なかなか興味深い方法です。

森の表土ごとひっぺがえして移植するという重機の登場。
これなら、土壌生物やバクテリアまで含めたマスの状態での引っ越しってのが、かなり可能になってくる。

そうやって剥がした森のカケラを、別の敷地に敷きつめてお引っ越しさせるという方法です。
もちろん、剥がせる表土の厚さには限りがありますから、森の生物がさらされるストレスはものすごい。
それでも何とか生き残れる物をレスキューできるって事になります。
移植先にあらかじめナースプラント的に大きな樹木も植えておけば、もうすこし活着率もあがるんじゃないかなって思ったりしました。

回復の過程を紹介してました。
まぁ、色々言いたいこともあるんだけど、長くなるんで。
面白かったのは、菌根性の地性ランなんかもレスキューできてるって事ですね。
今までの移植じゃ、まず無理だったでしょ。
さて、その他にも系統やら祖先種の実在やらについての議論とかいっぱいあって刺激的だったんですけど、手短に紹介するには「哲学的なあまりに哲学的な」お話しなので、最初からそれは無理な相談。
それでなくても、学会の終了時刻が1時間以上も延びちゃったぐらいなんだから。
学会参加なんて、もう15年ぶりぐらいかなぁ。
シンポジウムが終わって外に出たら、十六夜の月。
ぼくの脳味噌は、限界をとっくに超えてしまっていました。
そう言えば、こんな歌があったよねぇ。
♪レモンのような月の下で
メロンのような恋をしたい
それが私の夢なのよ それが私の恋なのよ♪
アッ、アッ、アッアッ、ア〜ン♪
と、まぁ、こんな状態に。
はははのは