つい先日、ミズナラの森を散歩しているときのことだった。
木漏れ日の中に、早くも黄葉したシダが何とも陽気な金の光を放っているのを見つけたのだ。
やがて枯れ行く葉むらの最後の輝きが、森のそこここをなんと華やいだ雰囲気に変えてしまうことか。
秋は万人を詩人にすると言うけれど、梢を騒がす秋風を聞きながら、そして不意に落ちてくる木の実におどかされながら歩を進めるうち、創作意欲と言うよりは悪戯心が頭をもたげてくる。
まぁ、いつものことで、取り立てて言うほどのことでもないのだが。
でも、朽ち葉や枯れ穂、乾いた朔果、あるいは綿毛、宝珠のような秋の実りで、小さな花束を作る気分ではなかった。
なにかもっとこう、ユーモラスな、苦笑を誘うようなもの。
そしてこのマムシグサの実のように、どことなくグロテスクなもの。
ほんの少しだけ、自然ではあり得ないもの。
さりげなく、異界の入り口へと誘うもの。
ひょっとするとリスや小鳥の悪戯かもなんて思えそうな、ともすると見過ごしてしまいそうなささやかな悪戯を森のそこここに仕掛けてみたくなった。
キノコ狩りに来た人がふと目に止めて、なんのおまじないかと訝しがるような、そんなささやかな悪ふざけをしてみたくなった。
そして少しだけ、森がいつもと違ったものに見えたら良いなと思う。
アンディ・ゴールズワージーや
ニルス・ウドの作品は、
本を通して知っているけれど、美術館の中に作品ぜんとして展示されているよりも、なんの先入観もなく散歩の道すがら、あるいはキノコ摘みの合間にふと視線をあげたそのとき偶然に森の木々の間にそれを見つけた方が、よっぽどビックリするんじゃないかと思うのだ。
暇な奴が居るもんだと、苦笑するのも良い。
一体どういうつもりなんだかと、怪しまれるのも楽しい。
木漏れ日を受けて輝く蜘蛛の巣の、意外な美しさに気がついてくれたら、それはまたステキなこと。
さっき通り過ぎたアレは、さては同じ奴の仕業だったかと、呆れられるのもまた一興。
いや、誰も通りかからず、誰にも見つけてもらえなかったにしても、小さな甲虫が目ざとく飛んできて果汁にありついたとしたら、それも良い。
闖入者に驚かされ行方をくらましていた主が、いつの間にか舞い戻ってきて獲物を待ちかまえる様を見るのも面白い。
ひょっとすると、林を通り抜けようとした蝶が、枝先に咲いた花と見間違えて、蜘蛛の餌食になったりするのかも知れない。
あるいは、夏の間中森を留守にしていたジョウビタキが戻ってきて、この急ごしらえの餌台の赤い実をついばむのかも知れない。
あるいは、明日の朝、露に濡れた蜘蛛の巣が森を貫く朝日に射抜かれて、燦然と輝くのかも知れない。
それとも、熊の足跡を追ってきたマタギが最初に見つけるのは、こんな暗号かも知れない。
そして、何事かを二言三言つぶやいてから立ち去る前に、後からやってくる仲間のためにいくつかのメッセージを追加していくのだろう。
いやいや、そんな馬鹿なことがあるものか。
きっと別の幹の木の皮の間に、尾根を三つ越えた谷の奥に佇むトチの古木の所で待つと、新たな暗号を残して立ち去るに違いないのだ。
おあいにく様。
そんなことはいっさい無かったね。
ただ、狩人たちが立ち去った後にやってきた熊が、ドングリを食べようと幹に前足をかけたときに、この不穏な結界に気がついて悪態をついて立ち去っただけだった。
そしてその翌日の午後遅く、たまたま通りかかったリスが、今年の冬の食料はこんな風に蓄えておくのも悪くないなと独りごちたのは、誰も聞いていなかった。
まして、その近くの木の股のベッドで、百の眼を持った頭でっかちのテンナンショウが、落ち葉の布団の下でなかなか眠りにつけなかったことや......
その枕元で、キノコたちが秘やかに子守歌を口ずさんでいたことも、誰にも気付かれずに過ぎていった。
それはそれは、木漏れ日の美しい静かな秋の午後のことだったとさ。