「コクリコ坂から/宮崎吾朗;2011年劇場公開作品」
アニメーション
僕は、映画の出来不出来に関する責任は、つまるところ監督に帰すると思っているので、このブログでもタイトルの次に監督名を記しているのだが、それと同じくらい、あるいは比重で言えば6割くらいはシナリオライターの責任も重大ではないかと思っている。シナリオがいいのに監督がダメなばかりに駄作映画と成り果てた作品もあることはあるが、シナリオがダメでも監督の腕で名作映画になった作品など皆無だからだ。
さて、本編は前作「
ゲド戦記」のあまりの駄作ぶりに、職業監督としての生命を絶たれたかに見えた宮崎吾朗の監督第二作である。あれほどの駄作を撮って二度目のチャンスを与えられるとは、なんと幸福な人だろう、と思ったものだが、そのときふと上記のようなことを考えたのだ。もちろん、ゲド戦記のシナリオも宮崎吾朗本人が書いているので(もっともアレンの父殺しという原作無視も甚だしい設定は鈴木Pの罪だが)駄作の責任を逃れられるものではないが、もうちょっとマシなシナリオだったらどうだったのだろう、と…。父・宮崎駿によるシナリオを得た本編は、そんな僕へのささやかな回答だったのかもしれない。
本編の原作は今から30年以上前、少女雑誌に連載されたマンガ作品である。シナリオを書いた父・駿は時代設定を東京オリンピック前年に移し、まるで当時の日活青春映画のようなストーリィにリメイクした。カルチェラタンと名づけられた部室棟(大学ならいざしらず、高校でこんな立派な部室棟があるなんて随分ぜいたくな学校だ)の存続のため、大掃除をするという本編中最大のイベントも駿オリジナル。わりとおとなしい原作にアクションをプラスし、派手な印象を付加するやり方はその昔の「
魔女の宅急便」と同様である。
駿のこのシナリオが吾朗の肌に合ったのか、重く迷い気味であった前作に比べ、何か吹っ切れたように軽快なテンポで物語は進む。その軽さは駿がもともと意識していたか否かはわからないが、やはり日活青春映画の乗りに近い。古風な恋愛スタイルや、ヒロイン海(長澤まさみ=なぜいつも「める」と呼ばれているのかの説明はどこかですべきだっただろう)と新聞部員・風間俊(岡田准一=せっかく出ていたのだから、ここは風間俊介にアテさせたほうがややこしくて面白かったのに^^;)の血縁がらみの関係など、いかにも吉永小百合や浜田光夫あたりが実際演じていそうな感じだった。
ここ数年、駿御大の作品は想念が勝ちすぎて難解になり、他の監督作品ももうひとつなものばかりで迷走気味だったジブリ作品にあって、もっともその出来が危ぶまれていた本編が、意外にも一番かつてのジブリらしい作品に仕上がっていたことは、はたして喜ぶべきことなのだろうか?・・・
★★★★

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