「借りぐらしのアリエッティ/米林宏昌;2010年劇場公開作品」
アニメーション
映画を観始めて漠然と思ったのは、アリエッティ(志田未来)たち小人族は普通の人の何分の一という設定なのだろう、ということだった。原作の設定では「リリパティアンサイズ」(ガリバー旅行記の小人の国リリパットの住人と同じ大きさ)らしいのだが、映画ではかなり曖昧な印象。
作中にはドールハウスが出てくるが、これは普通1/12スケールで作られる。人間を1/12にすると、身長160cmの女の子でだいたい13cmちょっとくらいになるが、どう見てもアリエッティはそれより小さく感じた(13cmというと、大人の手で中指の先端から手のひらの真ん中くらいになる)特に気になったのが髪留めに使われている洗濯ばさみ。市販の洗濯ばさみはふつう長さ5〜6センチくらいあり、劇中のものは小さすぎる。映画のラストで人の手のひらの上に置かれるシーンがあるが、どう見ても洗濯ばさみのミニチュアであり、とても実用に耐えられるとは思えない。
まち針、角砂糖、虫(特にスピラーが持っていたバッタの足)猫など、遭遇するいろんなアイテムに対するスケール感がずれている感じは最後まで気になった。アニメでは普通キャラクターたちの身長比較表を作ったりして、それぞれの大きさに対する感覚がずれないよう気を配るものだが、当然本編にもそうしたものはあったはずなのに、このスケールが「狂った感覚」は何だったのだろう。
それから、原作はあちらの児童文学なので当たり前だが、登場人物は小人も含めて全部イギリス人。アニメでは舞台設定は日本で普通の人間も日本人なのだが、アリエッティたち小人は生活習慣や名前からしてヨーロッパ人らしい。しかしなぜか全員日本語でしゃべってる。彼らは一体どうやって日本に存在することになったのだろう。
なぜ舞台を日本に変更したかについて、とあるメイキング番組で鈴木Pが言い訳していたのを聞いた気がするが、要するに費用対効果の問題らしい。しかし、ヨーロッパにロケハンに行くことなど今のジブリにとってはなんということもない出費だろう。実際、遥かに苦しかったはずの発足当時には、ヨーロッパを舞台にした作品も作っているし、おかしなことを言うものだ。そんなことよりも、こうしたちぐはぐさが作品の世界観に矛盾を与えてしまうことの方が、ずっと問題だろうと思うのだが。
前半の、アリエッティたちの「借りぐらし」の様子はアクロバティックで面白かったが、翔(神木隆之介)が話に絡んでくるあたりから流れが変り、筋立てを追うだけで手一杯になってしまう。翔がまもなく心臓の手術をひかえた身である、という設定のおかげで、いつもの「行動で表す」宮崎流表現がほぼ不可能だったのも痛い。この人、自分の理念を言葉にするのも下手だが、話を理詰めで展開するのはもっと下手なのだ。演出も自分でやっていれば、このあたりは演出力でカバーできたかもしれないが・・・。
後半は、人に見られてしまったらその家を出なければならない、という「掟」を忠実に遂行する一家の逃亡を描くのだが、呆れたことに、アリエッティの「初めての得物」であったまち針を使うシーンもなければ、父が「厄介だ」といっていたネズミたちも結局出てこない。それらの登場シーンは、通常ならスペクタクルへの伏線となるはずなのだが、完全に忘れ去られてそのままたいした山場もなく、エンディングまでたどりついてしまう。
「借りぐらし」での刺激だらけの生活とは真逆の、まったく平穏無事な逃避行など、どう考えてもおかしいことは、飼い猫とのら猫の生活を比べてみても判りそうなものだ。たとえばタヌキとの遭遇にしても、かつてのジブリなら必ずひと悶着起こしてくれたものだが、今回はいかにも「本筋には関係ない」といった風情でやり過ごすだけ。以前のサービス精神は一体どこへ消えてしまっただろう。
さすがに翔との別れは取ってつけたようなシーンが用意されてはいるが、自分の責任でアリエッティたち一家を追い出す格好になってしまったことについての反省の弁はわずかで、「勇気をもらった」とか見当違いの発言に終始する。結局、最後までこの翔という少年のキャラクターには共感できなかった。というより、取り付く島がなかった。同様にして、突然小人の捕獲を試みるお手伝いのハルさん(樹木希林)も、何を考えているのかよく判らなかった。穿った見方をすれば、このふたりはともに徹底して小人目線から描かれており、その判らなさ加減がそのまま小人から見た「人間」観なのかもしれないが。
いずれにしても、あの宮崎駿が脚本を手がけたにしては、あまりにもの足りない作品であったことは確かであり、残念ながら失敗作の謗りを免れることはできないだろう。・・・
★★

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