「20世紀少年<最終章>ぼくらの旗/堤幸彦;2009年劇場公開作品」
映画
シリーズも三作目に至って、ようやくこの映画の正しい鑑賞方法に気づいた。それは「脳内補完」鑑賞法とでもいうべき方法である。
以下ネタバレあり、まだ観てない人は読まないように
たとえば、「ともだち」の本拠地に連行されたカンナ(平愛梨)が、すれ違った幹部の高須(小池栄子)にこっそり拳銃を渡され、それを使って「ともだち」を殺そうとするシーンがあるが、普通に考えればなにかの罠だろうと思うのが自然である。少なくとも、装弾を確認もせずに使用するのは愚かとしか言いようがない。拳銃など見たこともない女子というならまだしも、そのときのカンナは過激なテログループ「氷の女王」を率いる一人前のテロリストという設定であり、毎日銃器に囲まれて生活していたのである。当然、拳銃の扱いには慣れていたはずであり、少なくとも、弾丸が入っているか否か確かめもせずに撃とうとすることは、普通ならありえない。
これをどう考えるべきか、単に原作がそうだからそれに従ったのか(原作の冗長さに辟易してしまって、このあたりは未読である)あるいは展開の都合上、カンナが逡巡する時間的なゆとりがなかったのか・・・。そこで「脳内補完」の登場である。映画ではテンポよく描写されていたため気づかなかったが、逮捕された時点でカンナは絶望的な気分になり、状況を理性的に分析できる状況ではなかった。そんなとき、いちばん欲しかったもの、つまり敵の命を奪うことの可能な武器を与えられたら、その武器の機能を疑うゆとりなどなかった・・・のかもしれない^^;
とにかく、そう考えなければ次に行けないシーンがあまりにも多すぎて、いちいち引っかかっていられないのだ。一本の映画で一、二箇所、というなら単なるミスで片付けられるだろうが、それがこう多いと、ミスというより一種の「手法」ではないだろうかと思えてくる。なにしろ堤監督といえば、「トリック」シリーズでも顕著なように、「手法」それ自体を一種の娯楽として確立してしまった人である。本編のような荒唐無稽な題材を得て、凡庸な監督ならその「穴」の多さに頭を抱えるところだが、堤監督はそれを逆手に取り、無理を承知のガタガタな展開を「スタイル」として「楽しめ!」と強弁しているのである。
ただし、それを本当に楽しめるか否かは観る人の素養に負うところが大きいだろう。後半に登場するアダムスキー型円盤や、二足歩行ロボットの描写にかつての東宝特撮映画の面影を見出す人は、それだけでも楽しめるだろうし、原作を何度も読み込んでストーリィが完全に頭に入っている人にとっては、原作の刈り込み方の堤監督なりの方法論を楽しむこともできそうだ。
たとえば、原作では話の途中まで「ともだち」本人であったフクベエは、なぜか「忍者ハットリくん」のお面をかぶっていたのだが、その理由はフクベエの本名が服部であった、という単純なものだった。小学生の国語力では「服部」を「はっとり」と読むことができず、そのまま音読みで「ふくべ」と読んでしまい、そこから転じてあだ名が「フクベエ」となった。つまり「忍者ハットリくん」のお面自体が「ともだち」の正体を明示していたわけだ。本編では「フクベエ」は小学生時代に死んでいたことになっており、せっかくの凝った設定が無意味になってしまっていたようにも思えるが、寄せ書きの中に「服部」の名はちゃんと書かれており、知っている人にだけ判る伏線(少なくとも、「ともだち」が実はフクベエではなかったかと思わせる伏線)になっていたようだ。映画では「ともだち」が二人いたという設定は複雑すぎると思ったのか、フクベエとは別の人間に限っているのだが、おかげで小学生時代に死んでいた人間と、死んでいたと思い込まれていた人間が別々に存在していた、という、これはこれでややこしい設定になってしまった。
それにしても、前作同様「ともだち」が世界を支配するプロセスの描写が、あまりに貧弱で説得力に乏しく、浴びた人間が即座に血反吐を吐いて死んでしまう「ウイルス」の設定のムチャクチャさ(あれではどう見ても生物兵器というより化学兵器だが、なにしろ「ワクチン」が登場しなければならないので「ウイルス」の看板を下ろすわけには行かないのだ)など、個人的には看過できない穴が多すぎた。特に、オッチョ(豊川悦司)がユキジ(常盤貴子)に唐突に「ヨシツネが『ともだち』かもしれない」と言うくだり(これをご都合主義と言わずしてなんと呼ぶのか、堤監督には小一時間・・・^^;)や、ケンヂ(唐沢寿明)の復活コンサートのシーンなど、あまりにあまりな描写に辟易せざるを得なかった。
なかでも、エンドロール後に10分も続く「その後」の物語は最悪。前回にも書いたが、ボーナスステージのバーチャルリアリティは現実ではなく、ここでケンヂがいかなるケリをつけたとしても、それは結局彼の自己満足に過ぎず、「ともだち」により命を奪われた数十億の人間に対する贖罪にも何もなっていない。なにより、ここで「グータラスーダラ」の作詞をしたのがほんとうにカツマタくん(神木隆之介)だったとしたら、この物語の設定それ自体が瓦解してしまうと思うのだが^^;
堤監督、容器を作るのは得意なようだが、そこに何を入れるのかまでは考えていなかったのだろうか。・・・
★★★

1