平成20年5月17日の記事では、鉄道マニアとしても知られている吉本興業の芸人・中川家礼二さんが責任編集長を務めた『
笑う鉄道 関西私鉄読本』という本を紹介させていただきましたが、今回は、その中川家礼二さんと、明治学院大学国際学部教授で鉄道関係の著作も多い原武史さんの共著『
「鉄塾」 関東VS関西 教えて!都市鉄道のなんでやねん?』という本(本体価格1,238円、全196ページ)を紹介させていただきます。
この本は、関西の鉄道(その中でも特に京阪電車)を愛する中川家礼二さんが抱く、鉄道に関しての「なんで?」という疑問に、原武史さんが都市学、歴史、文化論を交えて回答し、それに対して中川家礼二さんが納得したり突っ込みを入れたりする、という構成になっており、前述の『
笑う鉄道 関西私鉄読本』やその続編『
笑う鉄道 関東私鉄読本 上京編』同様、鉄道マニア向けの本ではないため、マニアの方にはやや物足りなく感じる部分はあると思いますが、鉄道入門書としてはなかなか面白い、個人的にはオススメの本です。
とにかく、わかりやすい内容です。
鉄道マニアよりも、むしろ、マニアではない人、特に鉄道に興味がある訳ではないけど必要に迫られて通勤もしくは通学のためほぼ毎日電車に乗っている、という人に読んで貰いたい本です。
また、この本を読み終えると、とりあえず、名阪特急の
アーバンライナーには確実に乗りたくなると思います(笑)。
この本では、関西や関東の主要私鉄各社の歴史についても原武史さんが解説されているのですが、これも、こういった歴史を知らない人にとっては、かなり興味深い内容だと思います。
以下に、その一部を抽出させていただきます(但し原文そのままではなく一部中略しています)。これを読むと、私鉄王国・関西の礎は、まず阪神が築き上げ、その後、阪急の小林一三が一気に飛躍させ大輪の花を咲かせた、たという過程がよく理解できます。
『
関西で最初に電車を走らせた私鉄は阪神。明治38年には出入橋〜三宮間を開通させたのが電車としての関西私鉄の始まり。阪神はあの路線を開業させるため、開業前に技師長の三崎省三をわざわざアメリカへ視察に行かせている。明治時代にそこまでやっている。
その結果、三崎は線路幅が重要であることに気付き、既に東海道本線が走っている大阪〜神戸間で国鉄に対抗して高速電車を走らせるためには、日本で採用されている1067ミリではなく、アメリカが採用している1435ミリでなければならないと分かった。
ところが、日本ではそれは無条件には認められなかった。当時、私鉄を建設するには私設鉄道法に依拠しなければならなかったが、この法律は、線路幅は国鉄と同じでなければならないとか、政府が国鉄の線路を接続させたいと思った時にはそれを拒否できないとか、かなり細かく規程されている上に、いざとなればいつでも国のものにできる、という内容の法律だった。
そこで阪神は考え、「これは路面電車」ということにした。当時は路面電車のことを「軌道」と言い、それについての軌道条例という法律はたった3条しかなかった。私設鉄道法の厳しさに比べるとほとんどノーチェックみたいなものだった。だから簡単に免許が下りたし、線路幅に関しても1435ミリのままでもお咎めなしだった。
それで最初、阪神は神戸市内に5キロだけ、申し訳程度に道路併用軌道を造った。ところが阪神ははなから路面電車を走らせる気などなく、表向きは「軌道でっせ」という顔をしておきながら、その実、なし崩し的にどんどん電車専用の線路を敷いていって、将来的には表定速度60キロで高速運行することを織り込み済みで開業している。
こういう発想は、やっぱり関東にはない。関東は杓子定規だから、軌道として開業するんだったら、大真面目に軌道を造ってしまう。』
『
大胆不敵ということでは、阪神の上をいったのが阪急。
阪急も軌道条例に準拠して、明治43年に開業しており、そのため最初のうちは路面の部分があった。この手法は阪神の真似で、表向き「これは軌道」ということにして、着々と専用の線路を敷いていった。
ところが、まず最初に本線の梅田〜宝塚間と、途中で分岐する支線の石橋〜箕面間を同時開業した後、次に阪急は何をやったのかというと、なんと阪神間の輸送に殴りこみをかけた。それが神戸線。しかもそれだけでなく、神戸線の開業に先んじて社名まで変更してしまった。
それまでは、大阪の箕面と、宝塚の先の有馬温泉を結ぶ予定だったので、2つの終点を合わせて「箕面有馬電気鉄道」という社名だったが、創業者の小林一三は、阪神間参入を見据える形で社名を「阪神急行電鉄」に変えてしまう。
当然、お上からは物言いがつく。「軌道で認可したはずなのに、急行電鉄とは何事だ!」と。ところが小林は無視して全く従わない。商号変更は届出事項で、建前上は監督官庁が容喙できないことを知っていたのだ。この社名変更劇は、お上に対しての反抗であると同時に、ライバルである阪神よりも「うちのほうが早いぞ」ということを表すためにわざわざ社名に「急行」の文字を使ったことからもわかるように、阪神に対しての挑戦状でもあった。
こうなると、もう軌道条例も何もあったものじゃなくなる。軌道でも急行電鉄を名乗れるという前例ができてしまったので、これ以降、関東でも関西でも私鉄が次々に真似をしていく。』
『
とにかく小林一三という人は相当な曲者だった。
「箕面有馬電気鉄道」だから、本来は有馬温泉が終点でないとおかしいが、実際には宝塚止まりで開業した。どうもその時点で、もう一方の終点を有馬温泉にするというのは真剣に考えていなかったのではないかと思う。むしろ、最初から宝塚を開発することに力点が置かれていたという感がある。宝塚線を開業させてすぐに新温泉と歌劇場をつくっているぐらいだし。』
『
阪急は、池田室町住宅を皮切りに、桜井、服部、豊中、あるいは売布神社、清荒神というように沿線をしらみ潰しに開発していった。神戸線でも同じ手法を採り、そうやって沿線のイメージを上げていった。
当時の大阪は住環境が劣悪で、長屋が多く、プライバシーもほとんどなかった。そこで小林は、「これからは郊外の時代ですよ」「郊外に行けばこんなに空気もきれいだし、こんなに広い一戸建てを月賦で無理なく買えますよ」と宣伝してまわった。ローンによる分割払いで家を売るなんて、それまで誰も考えなかったことを小林が初めてやり出した。これが大成功した。』
『
日本の鉄道史をひもとくと、とにかく阪急と東急はよく似ていると言われるし、創業者についても「西の小林、東の五島」と比較されることが多いが、東急のやったことは全部阪急の真似だった。それは五島敬太も自叙伝の中ではっきり言っている。「自分が知恵を借りて自分の決心を固めたものは小林一三だ」と。
小林一三という人は、それぐらい時代を的確に見抜く目を持っていた。』
関西の私鉄ではありませんが、関東の西武についても興味深いことが書かれていたので、これについても、以下に一部抽出します(但し原文そのままではありません)。
『
西武という会社はずっと同族経営であるという、日本の鉄道史上でも稀有な存在。
堤康次郎と、異母兄弟の清二・義明と2代にわたって、これ程までに話題を提供したというか、有名な人物を輩出した鉄道会社というのはほかには見当たらないのではないか。強いてあげれば、五島慶太を継いだ東急の五島昇ぐらい。
西武の特異性を示すエピソードがある。それは、お墓。康次郎の死後、西武は「鎌倉霊園」という巨大な墓地を鎌倉市郊外に造った。その一番高い所にあるのが堤家の墓で、とんでもなく広大で、面積でいったらそれこそ天皇陵並み。元旦には義明が大磯の自宅からヘリコプターで降り立って、西武鉄道の社員が続々と参拝に訪れる。しかも、平成16年までは交代制で社員が2人ずつ泊まり込んで墓守をしていたらしい。「大将が寂しがるから」って。
康次郎は「職場巡視」のため、時々特別列車を走らせてたけれど、同じことを義明もやっていた。まるで御召列車みたいに、社員がみんな敬礼する。それほど絶対的な存在だった。』
中川家礼二さんと原武史さんは、ともにターミナルにも愛着を持っており、その関連の話題も面白かったです。以下は、原武史さんが語る“ターミナル論”です。
名鉄名古屋駅については、私も同駅に行く度に毎回「凄いな〜」と感じていました。
『
大阪の私鉄のターミナルは、それぞれが街の中でひとつの顔になっているのに対し、東京の私鉄にはターミナルらしいターミナルがほとんどない。西武や東武の池袋も、小田急の新宿も、東急の渋谷も、京急の品川も、JRの駅に間借りしているような構造で、駅自体に独自のカラーというものを感じない。
関西の場合、例え阪神と近鉄が相互乗り入れを始めても、関東の私鉄とは違いそれぞれのターミナル(上本町や梅田)の中心性は守り抜くし、そうやって会社ごとの個性を残していく。
西武新宿は、ほとんど個性のない都内の私鉄ターミナルのなかでは、孤高を貫く私鉄ターミナルといえる。』
『
東武には浅草というターミナルがあるが、東武日光や鬼怒川温泉行きの特急はJRに乗り入れている新宿発着のほうが断然便利。北千住から乗り入れてくる日比谷線や押上から乗り入れてくる半蔵門線など、むしろ脇から入って来るほうが本数的にメインで、東武浅草は完全に場末というか、田舎の終着駅みたいな雰囲気になっている。
しかし、関東大震災前までは上野や浅草が東京最大の盛り場であり、東武が、浅草(今の業平橋)を起点として旅客営業を始めたのは、その時代の判断としては正しかった。』
『
名鉄名古屋は、線路が2線とホームが3つしかないのに、発着する列車の行き先は上下合わせて30種類くらいあり、かなりアクロバティックな運用をしている。』
以下は、新幹線についての話題です。
新幹線の延伸・開業という明るい話題の陰には、常に並行在来線の存続問題という、極めて深刻な問題があることを原武史さんは提起しています。
『
今回、新幹線が新青森までつながったことで交通の便が格段に良くなったのかというと、そんなことはない。少なくとも、かつての特急停車駅の周辺(三沢とか野辺地とか)に住んでいる人、浅虫温泉の旅館業者、大湊線に乗って行く下北半島に住んでいる人達にとっては、在来線が充実してくれたほうがよっぽど便利だったはず。
東北本線の八戸〜青森間が第三セクター化されたことにより、特急はなくなり、運賃も値上がりし、地元の足としても不便になったし、観光客も素通りしてしまうようになり、このままでは旧東北本線沿線の経済は確実に停滞してしまう。』
『
新幹線が通れば、採算性が低いからという理由で並行在来線は切り捨てられ、沿線の町も寂れてしまう。新幹線の駅周辺が「点」として栄えても、他の地域と「線」でつながることはない。だから同じ県でも、新幹線の駅ができた所と素通りした所との格差が大きくなり、後者は益々孤立してしまう。』
震災と鉄道、というテーマについても、原武史さんは以下のような、大変興味深いことを語ってくれています。
これにも「なるほど」と思わせられる点が多いです。
『
東日本大震災の発生から僅か5日で部分的に運転を再開した三陸鉄道を支援する目的で、私は4月末に岩手に行ってきた。まだ新幹線は全然復旧していなかったので、仙台から一ノ関までは在来線を使い、一ノ関から再び新幹線に乗って盛岡へ着いたのだが、そこで驚いたのは、盛岡〜釜石間を結ぶJR山田線のダイヤだった。盛岡から三陸鉄道起点の宮古まで行く列車が一日4往復しかない。震災の影響からではなく、平常ダイヤが1日4往復で、しかも始発は午前11時台。これでは話にならない。
沿岸部の被災地を走る在来線はいまだに復旧のメドが立っていないが、今まで新幹線優先の鉄道建設と徹底的な合理化で在来線を切り捨ててきたJRのやり方を見ていると、本当に復旧させる気があるのかとも思う。“つなげよう、日本”なんて大層なことを言うのなら、盛岡〜宮古間が1日4往復という現状を真剣に考えて貰いたい。』
『
今回の震災の場合、東京では地震そのものの影響よりも、JRの電車が止まって駅を閉鎖したことによって生じた混乱のほうがもっと大きかったと言えなくもない。東京は私鉄が中心部まで乗り入れていないので、山手線がストップすると影響が大きい。しかも震災当日、JRは駅構内からも人を締め出した。せめて駅を開放して、そこで休むことができたなら、あんなに路上に人が溢れることはなかったと思う。』
『
最近のJRは極端なまでに安全を掲げ過ぎる傾向がある。勿論、平成17年4月にJR西日本が福知山線で脱線事故を起こし、散々バッシングを受けたわけだから神経質になるのも無理はないが、状況に合わせて柔軟な対応を取ることも時には必要。
同年12月には、JR東日本管内で特急「いなほ」が強風のため脱線事故を起こし、これ以降は列車運休の風速規制が秒速30mから秒速25mに引き上げられ、そのためここ数年、JRの電車は台風が来るとかなり早い段階で止まるようになった。
平成21年10月の台風18号の時は、京急が平常運行をしている午前中の段階で、JRの京浜東北線と東海道線がストップし、振替輸送でJRの客が全部京急に流れ込み、そのため今度は京急の駅がパンクして危険な状態となり、結局京急までストップした。電車がどこも動かないので、移動手段がバスやタクシーしかなくなり、道路は大渋滞になった。つまり、大混乱になったきっかけはJRがあまりにも早く運休に踏み切ったからとも言える。
勿論安全は大切だが、東京は電車が止まるとパニックになることが分かり切っているのだから、もう少し状況に合わせた臨機応変な対応を考えてみてもいいと思う。』
以下は、その他のいろいろな雑学や、原武史さんの意見・主張等です。こういった内容も面白かったです。
『
東洋一といわれた香里団地(総戸数4,883戸)ができてから、京阪沿線のイメージは確実に向上した。』
『
私鉄には昔からつくり上げてきたイメージがあり、例えば名鉄には、パノラマカーという花形車両の時代につくられたイメージの貯金がまだある。
阪急の宝塚線はその典型で、宝塚〜大阪間は、時間だけで比べたらJRの快速のほうが速いにも拘わらず、宝塚の歌劇を見に行くのであれば、誰でも問答無用で阪急に乗る。』
『
東急が目指すものは“上品な暮らし”だと言うが、“上品な暮らし”だったら通勤時間だって快適でなければならないはずなのに、東急は全ての電車が通勤型で、車端部の一部を除いてクロスシートを設置した車両は存在せず、東急の利用者たちは乗車率200%を超える準急や急行に乗らなければならない。
ところが東海道線では、ギューギュー詰めがどうしても嫌な人は、ちょっと余計に払えばグリーン車のリクライニングシートに座って快適に通勤できるという選択肢もある。小田急、東武、西武、京成など、有料特急を持っている私鉄も、既にそういう差別化を図っている。』
『
高度成長の時代は、通勤通学のサラリーマンや学生がどんどん増え、郊外には大団地が出来、お客さんが増える一方だったので、その時代の鉄道会社は集客策よりも輸送力の増強に頭を悩ませた。複線を複々線にして、6両を8両に、8両を10両に、という具合に躍起になった。ところが、今はもうそういう時代ではない。
もう随分前から労働人口は減少傾向であるし、逆に65歳以上の高齢者はどんどん増えていく。この人たちは仕事をリタイアしているので、もう通勤時間帯の電車なんかには乗らないし、そもそも電車に乗る必要すらないかもしれない。高齢者には十分時間があるのだから、少なくとも東京〜名古屋間をリニア新幹線に乗って40分で突っ切る必要なんてどこにもない。これからも、鉄道にスピードを求めない人は確実に増えていく。“量より質”の時代であって、移動の時間をどう楽しむかという“遊び心”なり“センス”なりが大事になってくると思う。』
『
関東と関西の距離感覚の違いは面白い。大阪の地下鉄では少しでも離れるときっちり名前を分ける。例えば地下鉄の梅田駅の場合も、「西梅田」と「東梅田」に分かれている。あんなの東京だったら絶対に同じ「梅田」になるはず。
東京メトロの銀座駅は、銀座線と丸ノ内線とでは離れており、実際昔は別々の駅だったのに、その中間に日比谷線が通ったものだから、3つの駅をまとめて「銀座」にした。都営浅草線の「日本橋」も、もとは「江戸橋」だったのに、昭和64年に銀座線や東西線と同じ駅名に改称された。東京は、なぜか分けるより一緒にしたがる。』
『
神戸電鉄粟生線では、「鈴蘭台」の次が「鈴蘭台西口」で、その次が「西鈴蘭台」になっている。「西口」と「西」をちゃんと使い分けている。ちょっとだけ西は「○○西口」で、西口よりももっと西の場合は「西○○」となる。関東と関西とでは日本語の感覚みたいなものが微妙に違っていて面白い。
あと、関東は平仮名を、関西は漢字を使いたがる傾向がある。同じ「ひばりがおか」という駅でも、関東では「ひばりが丘」だし、関西では「雲雀丘(花屋敷)」となる。阪急はあんなに沿線のブランドを確立してきたのに、駅名は漢字だらけ。東急は逆で、古くからの地名を全く違う平仮名交じりの駅名にしてしまう。「あざみ野」とか「たまプラーザ」みたいに。』

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