中国遼寧省大連で生きるおっさん

〜 「若者」もすなる「ブログ」というものを「おっさん」もしてみんとてするなり  一人の名も無きおっさんが、浅学菲才ながらも、自分の言葉と写真で、毎回一生懸命書いている大連ブログでございます 〜

 

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令和元年を迎えた大連「常盤橋」周辺、そして「連鎖街」の三船敏郎の「家」

今日は早出、「冬モード」の大連です。

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今朝7時ちょっと前です。冷えますねえ。

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蛇足ながら、省都・瀋陽の同日同時刻です。

さて今日は市中心部「青泥窪橋(大連駅)」の今昔です。日本統治時代は「常盤橋、常盤橋通り」という名の繁華街でした。当時と令和元年の今の対比を取り上げたいと思います。

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現在、土産物として売られている絵葉書からで、日本統治時代「常盤橋通り」の様子です。「常盤橋」交差点から「連鎖街」方面を撮った写真ですね。撮影場所は当時向かい側にあった旧「天満屋ホテル」からでしょう。左端に「南満州鉄道瓦斯(ガス)会社」が写っています。

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で、令和元年の今、ほぼ同じアングルで撮ります。旧「天満屋ホテル」の位置に立って、絵葉書のように左端に「南満州鉄道瓦斯会社」を入れて写します。

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写真中心の左下をアップで。「連鎖街」の建物です。

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少し移動して、先程触れた、当時のまま残る「南満州鉄道瓦斯会社」です。

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角度を変えます。旧「常盤橋」交差点から撮った「南満州鉄道瓦斯会社」です。

この「南満州鉄道瓦斯会社」ですが、令和元年の今、「日本繋がり」ですと一階に二軒の店が入っていますよ(入っていました)。

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まずは元気に営業している「和食亭」です。営業中=「鯉のぼり」、が目印です。昼時はサラリーマンとOLで混みます。

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チキンカレーや鶏のから揚げ定食、牛丼など日替わりで食べられます。美味しいですよ。

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もう一軒の「日本繋がり」。同じくこのビルの一階にあった日式ラーメン屋「麺膳」は先月で閉店しました。安く食べられる「和食亭」に客を食われたかな・・・。

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旧「常盤町通り」を渡って先程、触れた「連鎖街」へと移動します。日本統治時代は時代を超越したナンバーワンの繁華街ですね。日本統治時代は「銀座通り」という名の現在です。当時のここ「連鎖街」は東京の本家本元の「銀座」に勝るとも劣らないレベルの商店街でしたから、この名がつけられたのも納得というものです。御覧のように令和元年の今でも建物は現役です。真っ直ぐ行けば大連駅ですね。行きましょう。右側にちょこっと写っている青い店はローソンです。

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アップです。日本統治時代から令和の時代になっても、この「連鎖街」に入る「日本繋がり」の店はあるのです。大連で一番「価値のある」ローソンだと思いますね。ちなみにお隣もコンビニ(中国系の「快客」)です。コンビニの隣がコンビニ(!)です。

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更に足を進めると、大連ではお馴染み、持ち帰り弁当屋の「阿Q桶飯」です。写真左に写る赤い店で、よく利用させてもらっています。イートインコーナーがあるので店内で食べることもできますよ。この店の2階が日本統治時代は「スター写真館」=三船敏郎の「家」、ですね。御覧のように令和元年でも現存していますよ。

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角度を変えてアップです。私の世代ですと、三船敏郎よりも娘の三船美佳さんのお騒がせぶりの方が印象が強いです。三船敏郎は映画で見るぐらいですが、ここには5歳(9歳の春?)に青島から移り住んできて、聖徳小学校、大連中学校へと進みました。後年(昭和62年、1987年)にこの「家」を訪れたそうですが、あまりの変貌ぶりに激怒して、二度と来ることは無かったそうです。ともあれ三船敏郎ファンにとっては、今風に言うと正真正銘の「聖地」ですから、無くなる前に「巡礼」する価値はありますね。

ちなみに三船敏郎が、かつての「家」であったここを再訪した時の様子は、産経新聞のこちらの記事に詳しいです。素晴らしい記事なので、このエントリーの最後にも全文掲載しておきます。

スターウォーズファンにとっての三船敏郎は、オビ=ワン・ケノービ役のオファーを断る(『スター・ウォーズ』、1975年)、またダース・ベイダーの素顔となるアナキン・スカイウォーカー役のオファーを再び断る(『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』、1983年)で超有名ですね。

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足を進めると、ちょうど日本統治時代と変わらぬ外観を保つ路面電車が通り過ぎて行きました。この光景も当時と変わらないんじゃないですかね。

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で、道路の突き当りが大連駅です。右端に写っています。

さて、先程の旧「常盤橋通り」に戻ります。

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当時の「三越」から先程の「南満州鉄道瓦斯会社」へと移した写真ですね。これまた現在、土産物として売られている絵葉書です。

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これまた令和元年の今、ほぼ同じアングルで撮ります。車も比較したかったので、今現在のタクシーを入れました。

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角度を変えて「三越百貨店」です。今は一階に日本でもお馴染みでスペイン発のアパレルショップ「ZARA」が入っています。

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「石碑」は建物の裏側にあります。

歴史を学んで大連を訪れると、タイムマシンに乗った気分になれますよ。感動や感激もひとしおです。




参考記事:
「世界のミフネ」育てた写真館 「昔の面影すらないじゃないかっ」…変わり果てた街に絶句

面影消えた思い出の地

 三船敏郎は不機嫌さ丸出しに、帰りの飛行機の中でずっと怒鳴り続けていた。

 「あの変わりようは何だ。昔の面影すらなかったじゃないかっ」

 三船が戦後初めて大連(だいれん)を再訪したのは、昭和62(1987)年のことである。日中国交正常化(72年)から15年を記念した映画祭への出席が目的だったが、三船は公式行事以外、ホテルから出ようとしない。ようやく同行者らに促され、訪ねたのが父、徳造(とくぞう)が経営していた「スター写真館」の跡地であった。

 父の写真館は、小規模ながら、昭和4(1929)年に開業した当時最先端のショッピングモール「連鎖商店街」の2階にあった。13年の大連の電話帳には、《スター写真館(三船徳造) 栄町》の名前で登録されている。

 ところが、「内地にも例をみない」と謳(うた)われた、名店や遊技施設が並ぶテーマパークのような話題の新名所も、戦後は小売店や問屋などが混在する雑居ビルと化し、すっかり様変わりしてしまう。重い腰を上げて写真館の跡地を見に行った三船は面影すらない思い出の場所に失望を隠せなかったに違いない。

大連での再チャレンジ

 徳造は秋田・鳥海山麓にあった裕福な家の次男だった。三船の長男、史郎(しろう)(64)=三船プロ代表取締役=によれば、「祖父(徳造)は次男だから跡を継げないし、おそらく新天地で一旗揚げようとしたんでしょうね。『秋香(しゅうこう)』の号を好んで使い、写真館経営のかたわら、従軍カメラマンのような仕事もやっていたらしい。日露戦役記念や満州の名所を撮って販売した写真帳が残っています」

 その写真帳は、大連「スター写真館」の前、中国の青島(チンタオ)と営口(えいこう)にあった「三船写真館」時代のものだ。大連へ移ってきたのは青島で生まれた(大正9=1920年)三船が9歳の春。きっかけは、仕事の不振だったらしい。三船はこう書き残している。

 「父は第一次大戦後の好景気に恵まれ(略)市中でも飛ぶ鳥落とす程の勢いであった。しかし、私がほぼ物心のつき始める頃には、その勢いも衰えて、父は苦境にあった。(略)新しい地、大連の街に安住の場所を求めて船の甲板上の人となったのである」(昭和23年発刊の「映画スター自叙伝集」より)

 大連・連鎖街店街の「スター写真館」の開業は、経済的苦境に陥った徳造にとって新規まき直し、再チャレンジだったのだろう。

最初の志望はカメラマン

 大連で過ごした少年時代、「家計は楽ではなかった」(同)というが、夏は海水浴や野球、冬はスケート遊びに夢中になる。三船少年が通ったのは大連放送局(JOAQ=ラジオ局)に近い、新興住宅地の聖徳(しょうとく)小学校、6回生に三船の名があった。

 小学校で下級生だった元大学教授(92)は「(三船がいたことは)何となく覚えている。(スター写真館があった)連鎖街にはよく買い物にいったけれど…」と懸命に記憶をたぐる。当然かもしれない。後年の世界的映画スターも当時は無名の少年、「スター写真館」は覚えていても、それが三船と結びつくのは戦後のことだ。

 史郎によれば、三船少年はやがて父親の仕事を手伝うようになる。「学校が休みのときは、三脚担いで父親(徳造)の仕事を手伝いに行った、と言ってました。学校の卒業写真や記念写真などを撮っていたようですね」

 父を手伝いながら、撮影や現像の技術を身につけた三船は6年間いた軍隊でも腕を見込まれて航空写真作成の任務を任される。昭和21年、第1回東宝のニューフェースに合格し、俳優になったときも実は撮影部(カメラマン)志望だったことは、よく知られているエピソードだ。

 「原点」は大連のスター写真館にあったのだろう。

コスモポリタンの街

 大連の街について後年、三船はこう語っている。

 「この港町は、いうなれば日本の植民地で、日本人が威張っていました。(略)外国品は豊富だし、日本人の生活程度はかなり高いようでした。外人も多く住んでいて、ちょっとコスモポリタン的な雰囲気を持った明るい風光に囲まれた清潔な街でした。(略)三船は外人キラーといわれる素地が、すでにこのとき育っていたのかもしれません。外国人に対して、ぜんぜんコンプレックスを感じたことがないのです」(雑誌「潮」昭和45年4月号より)

 ところが戦後、三船は史郎らに大連時代の思い出を語ることはほとんどなかった。訪問したのも昭和62年の一度きり。同じ大連出身の俳優、横内正(ただし)(74)は「三船さんとは共演もしたが、大連の話をしたことはなかった。寡黙な方だったしね。今から思えば、話を聞いておけばよかったな」と残念がる。

 三船にとって、大連の街は簡単には割り切れない複雑な思いがあったのだろうか。それが「悪夢のような」(「映画スター自叙伝集」)軍隊生活とつながるためか、あるいは少年時代の思い出そのままに、そっと残しておきたかったのか、今となっては知るよしもない。

 「スター写真館」があった連鎖商店街は、それから随分、時がたって、作家の井上ひさし(平成22年、75歳で死去)が、こまつ座の芝居に書き、人気バンド、サザンオールスターズの桑田佳祐(59)が歌にうたった。

 内地にも例をみない商店街とはどんな街だったのか−。次回書きたいと思う。=敬称略、隔週で掲載します

(文化部編集委員 喜多由浩)



 三船敏郎(みふね・としろう) 大正9年、中国・青島生まれ、少年時代に大連へ移る。6年間の軍隊生活を経て、昭和21年、東宝のニューフェースに合格し、俳優に。黒澤明監督とのコンビで「羅生門」「七人の侍」「赤ひげ」などに出演、日本を代表する映画スターとなった。海外作品への主演も多く、「世界のミフネ」と呼ばれた。平成9年、77歳で死去。
https://www.sankei.com/premium/news/150719/prm1507190026-n1.html


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投稿者:dalian4649
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