ある女たらしの死  

 レナード・コーエンといえば「ハレルヤ」が有名です。沢山の人がカバーしていますし、2010年のバンクーバー冬季オリンピックでも歌われて会場中が盛り上がっていました。
 レナード・コーエンは文学を志しつつ、詩作でその名を世に広め、シンガー&ソングライターとして世界的にも著名になってきた人でした。1960年代から2016年の約50年の間のことです。
 はじめは、ボブ・ディランなどと同様、アコースティック・ギターをメインとしたスタジオ録音やでパフォーマンスを始めたのですが、1968年セカンドアルバム「ひとり、部屋で歌う」をリリース。その後も2枚くらいアルバムを出しますが、何を思ったかアメリカン・ポップスを語るうえでは欠かせない、ウォール・オブ・サウンドで有名なフィル・スペクターと共に「ある女たらしの死」というアルバムを制作したのです。前作から10年のブランクがありましたが・・・。当時付き合っていたジョニ・ミッチェルはそんなことはやめた方がいいと忠告したといいます。(イラ・ブルース・ナデル著『レナード・コーエン伝』298頁)
 そして、このアルバムは多くのレナード・コーエンのファンには快く受け止められなかったようです。
 しかし、ぼくにとってはレナード・コーエンのベストアルバムです。これほど好きなアルバムはありません。
 というのも、ぼくはフィル・スペクターのサウンドが大好きだからです。
 レコード(CD)を聴くということは、音を楽しむことであるとも思います。
 もちろん歌詞やメロディーに傾聴する人が多いと思いますし、それが普通なのだと思います。

 まず、タイトルの「ある女たらしの死」について見てみましょう。
 「女たらし」は女性にだらしない男というイメージがぼくにはあります。英語ではwomaniser、womanizer、philanderer等と言っているようです。しかし、レナード・コーエンのタイトルでは、「DEATH OF A LADIES' MAN 〜婦人たちの男の死」です。(コーエンは同名の詩集を1978年に出版しますが、それではLADY'S MAN〜婦人の男 と夫人は単数形になっています。いずれにせよ、コーエンは自分が溺れ、執着した女性(たち)のイメージからこのタイトルを選んだのでしょう。
 
 さてそのサウンドについて聞き耳を立ててみましょう。
 先ほども記しましたが、このアルバムはフィル・スペクターが作曲と編曲と録音を請け負っています。フィル・スペクターはビートルズとも関係があり、「LET IT BE」、ジョージ・ハリソン「ALL THINGS MUST PASS」や、ジョン・レノンの「ROCK'N ROLL」も手掛けています。ジョン・レノンの時はフィルがマスターテープを持ち帰りレコーディングがとん挫したという事件がありました。録音は1973年から始まっていたのですが、そんなじけんもありリリースにこぎつけるまで1年以上も費やしました。
 いわくつきのフィル・スペクターですが、本作製作中にも、レナード・コーエンは仮歌のみを録音しただけで、あとはフィルが全部一人でやってのけたのでした。この件は、レナードも根に持ちました!だとすればなお、フィル・スペクターが本アルバムで何をしたかったのかという興味だけが残ります。
本作には、レナード・コーエンの声のほかに多数の女性コーラス、デュエットが聴かれます。特に女性コーラスは、演出豊かに散りばめられています。特にアルバムタイトルにもなっていて9分以上続く「ある女たらしの死」においては、女性コーラスがサウンドの要になっています。映像で言えば、まばゆく輝く光のようにそして細かい塵と共に浮遊するかのごとくなかなか消えていきません。曲もいつ終わるとなく続くのです。
 この曲でスペクターは、ある曲の中で歌詞とメインボーカルがサウンドにとっていかに素材でしかないかを明らかにしたのでしょう。その素材をサウンドによって演出するという大胆な手法をとったのです。そのためにコーエンのボーカルは仮歌で十分だったのです。ボーカル録りの時点でレナードに演出されることはその後のサウンド作りの邪魔になるとでも言わんばかりです。
 言葉と歌声はアレンジによって際立つ、というのが通常の録音芸術のあり方だとすれば、フィル・スペクターにおいては、言葉と歌声とアレンジが、さらに言えばミキシングがトータルなものとして作品となっているのです。ぼくたちにその全体を提供し、探りを入れさせたがっているようでもあります。





















0

歌謡人生「情〜パッション」  

 ちあきなおみさんの歌の中で、俺がとても気に入っている歌がある。アルバム『色は匂えど』に収録されている、「五分前」という五分間の恋愛小説・・・悲しい、切ない、別れの歌。

 主人公の女は、田舎町でキャバレーかなんかの歌手をしてるんだろう。
 どこかで、知った男の子に惚れて、つばめかなんかにしたのかな。
 葡萄畑のある田舎町で、女と少年は情交を重ねる。
 少年はやがて成長し、街に出る。
 女は田舎町に残る。

 別れの日、バス停での五分間がこの歌だ。

 
「あと五分でバスが来るわ
 笑いましょ 素敵に
 ちゃんと立って 顔を見せて
 それなら街でももてる」

 精一杯、気丈にふるまう女。

「嘘みたいね 五年前の
 少年のあなたが
 私もしも 若い時なら
 ついて行く どこまでも」
 
 本当は今だってついて行きたいのだ。自らを制しているにすぎない。

 ここで、ちあきなおみさんもカバーした「港が見える丘」に似て、春から始まる恋を懐かしむ。


「春めく葡萄の下で
 くちづけして 笑ってた
 なにもかにもが 華やいでた
 時間(とき)を 時間(とき)を 止めて」

 始まりはいつも屈託なく、全身全霊で愛しあえる。
 女は、少年の為に、少年の日々の為に稼いだ。嫌いな歌も歌って稼いだ。

「あなたのためなら 私
 どんなことだってできた
 いやな歌も 歌えたのは
 あなただけを見ていたから いつでも」

 じぶんの愛した男を街の女になんかとられてたまるか、そんな我欲をひた隠しながら、女は、自分なりに男を見たてる。
 わが子を精悍に見せたい母親の様に、自分が飼育した男だと誇示したい女の様に。

「腕時計を 見つめている
 横顔が 素敵よ
 きっと街で 若い子たち
 あなたに夢中になるわ」

 心の中はどんなにか穏やかではないだろう。きっと男性器を切り落とした阿部定のように、この男を殺してしまいたいとまでも思ったかもしれない。そうすれば、男は永遠に自分の中にいる。

「口にすると ふるえそうで
 さよならが 言えない
 私 もしも 次に生まれて
 出逢えたら はなさい」
 
 性交のとき、名前を呼び合うように、そうするしか相手を自分のものとして認識できないことがある。時が少し流れたとき、女は体を許したのだ。

「そよ吹く 葡萄の下で
 名前呼んで 抱き合った
 せつないほど 愛していた
 時間を 時間を 止めて」

 時はとまらなかった。

 どんな夢だったのか。
 男は若いギター弾きだったのかもしれない。ふたりで演奏旅行でもしよう・・・
「あなたと私の夢が
 もうすぐ扉を閉じる
 バスが出たら 何も言わず
 あなたのこと 想いながら歩くわ」
 
 最後の二行が物足りないと感じる。バスを追いかけて転んで、男の名前を叫んで、「行かないで!」と絶叫するのでなければならないだろう、本当は。

 情。
 この頃、情を感じさせる歌がない。
 喰ったり買ったり行ったりなんだり・・・
 物質がまずあってセックスがあって。

 そこに、気持ちの貸し借りもなく、嘘や逃げもない。
 若いのに随分悟ったようなことを歌ったり、自省的なことを歌ったりする。どろどろでもふわふわでも、ファンタジーが、ロマンがない。

 伊集院静さんの詩には、歌謡曲が持っている女と男の情愛の素晴らしさが描かれ、筒美京平さんの曲にはソウルフルなアレンジが施され、惨めな女のバラードに仕上がっていて切ない。
1
タグ:   ちあきなおみ




AutoPage最新お知らせ