七 ポートセイドからイタリアへ
四月二十九日
昨夜おそく床にはいったが蒸し暑くて安眠ができなかった。……際限もなく広い浅い泥沼(どろぬま)のような所に紅鶴(フラミンゴー)の群れがいっぱいいると思ったら、それは夢であった。時計を見ると四時であるのに周囲が騒がしい。甲板へ出て見るともうポートセイドに着いていた。夜明け前の市街は暑そうなかわいた霧を浴びている。粗末な家屋の間にあるわずかな樹木も枯れかかったのが多かった。
神戸(こうべ)からずっといっしょであった米国の老嬢二人も、コンチャーの家族も、いよいよここで下船して、ジェルサレムへ、エジプトへ、思い思いに別れて行くのであった。老嬢の一人はねんごろに手を握って「またいつか日本で会いましょう」などと言った。
「お早う、今日は」と日本語で呼びかけるものがある。見ると、若いスマートなトルコ人の煙草売(たばこう)りであった。横浜にいたことがあるとか言って、お定まりらしいお世辞を言ったりした。結局は紙巻き煙草を二箱買わされることになった。
音楽が水の上から聞こえて来る。舷側(げんそく)から見おろすと一隻(せき)のかなり大きなボートに数人の男女が乗って、セレネードのようなものをやっている。まん中には立派な顔をしたトルコ人だかアルメニア人かがゆるやかに櫂(かい)をあやつっている。その前には麦藁帽(むぎわらぼう)の中年の男と、白地に赤い斑点(はんてん)のはいった更紗(さらさ)を着た女とが、もたれ合ってギターをかなでる。船尾に腰かけた若者はうつむいて一心にヴァイオリンをひいている。その前に水兵服の十四五歳の男の子がわき見をしながらこれもヴァイオリンの弓を動かしている。もう一人ねずみ色の地味な服を着た色の白い鼻の高い若い女は沈鬱(ちんうつ)な顔をしてマンドリンをかき鳴らしている。船首に一人離れて青い服を着た土人の子供がまるで無関係な人のようにうずくまっていた。このような人々の群れの中にただ一人立ち上がって、白張りの蝙蝠傘(こうもりがさ)を広げたのを逆さに高くさし上げて、親船の舷側から投げる銀貨や銅貨を受け止めようとしている娘があった。緑がかったスコッチのジャケツを着て、ちぢれた金髪を無雑作(むぞうさ)に桃色リボンに束ねている。丸く肥(ふと)った色白な顔は決して美しいと思われなかった。少しそばかすのある頬(ほお)のあたりにはまだらに白粉(おしろい)の跡も見えた。それで精一杯の愛嬌(あいきょう)を浮かべて媚(こ)びるようなしなを作りながら、あちらこちらと活発に蝙蝠傘(こうもりがさ)をさし出していた。上から投げる貨幣のある物は傘からはね返って海に落ちて行った。時々よろけて倒れそうになって舷(ふなばた)や人の肩につかまったりした。そうして息をはずませているらしく肩から胸が大きく波をうっていた。楽手らはめいめいただ自分の事だけ思いふけってでもいるようにまた自分らの音楽の悲哀に酔わされてでもいるように、みんな思いつめたような暗い顔をしていた。滅びた祖国、流浪の生活、熱帯の夏の夜の恋、そんなものを思わせるような、うら悲しくなまめかしい音楽が黄色く濁った波の上を流れて行った。波の上にはみかんの皮やビールのあきびんなどが浮いたり沈んだりして音楽に調子を合わせていた。……淡い郷愁とでもいったようなものを覚えて、立って反対の舷側(げんそく)へ行くと、対岸をまっ黒な人とまっ黒な石炭を積んだ船が通って行った。
七時に出帆。レセップの像を左に見て地中海へ乗り出して行った。レセップは右手を運河のほうへ延ばして「おはいり」と言っているように見える。運河会社の円頂塔(キューポラ)は朝日に輝いていた。
地中海は雲一つ見えなかった。もういよいよアジアとは縁が切れたのだと思う。……午後船の散髪屋へ行く。「ドイツ語がおじょうずですね」などと言われて、おしまいにはまたドロップの瓶入(びんい)りを買わされた。
四月三十日
朝からもうクリート島が右舷に見えていた。島というにはあまり大きいこの陸地の連山の峰には雪らしいものが見えていた。まさか雪ではあるまいとハース氏と言っていたが、とうとう Es ist doch Schnee と言って承認した。甲板は少し寒かった。寒暖計はそんなでもないのに、長い間暑さに慣れて皮膚が甘やかされているのであった。
午後三時十五分から子供の祝宴 Kinderfest を催すという掲示が出た。
ハース氏がその掲示文を読んで文章のまずい所を指摘して教えてくれた。時刻が来るとおおぜいの子供が甲板へ集まる。食卓には日本製の造花を飾り、皿(さら)にクラッカーと紙旗とをのせたのを並べてある。見るだけでも美しいトルテや菓子も出ている。子供らは N. L. D. の金文字を入れた黒リボン付きの紙帽子をかぶり、手んでに各国の国旗を持ち、楽隊の先導で甲板を一周した後に食卓についた。おとならはむしろうらやましそうに見物していた。……T氏と艙(ふなぐら)へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。
五月一日
午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える。富士山によく似ているという人もあったが、自分の感じはまるでちがっていた。右舷(うげん)の山には樹木は少ないが、灰白色の山骨は美しい浅緑の草だか灌木(かんぼく)だかでおおわれている。海浜にはまっ白な小さい家がまばらに散らばっている。だれかの漁村の詩にこんな景色があったような気がした。もう「東洋」と「熱帯」の姿はどこにもなかった。まもなく右にレッジオ、左にメッシナの町の薄暮の燈火を見て過ぎる。メッシナは大地震のために破壊されて灯(ひ)の数は昔の比較にならないとハース氏が話した。
九時ごろから喫煙室でN君ハース氏らと袂別(けつべつ)の心持ちでシャンペンの杯をあげた。……十時過ぎにストロンボリの火山島が見えた。十五夜あたりの月が明るくて火口の光はただわずかにそれと思われるくらいであった。背の低い肥(ふと)ったバリトン歌手のシニョル・サルヴィは大きな腹を突き出して、「ストロンボーリ、ストロンボーリ」とどなりながら甲板を忙しげに行ったり来たりしていた。故国に近づく心の興奮をおさえきれないように、あるいはまたこの「地中海の燈台」と言われる火山をできるだけ多くの旅客に見せたいと思っているかのように、最後から二番目の綴音(シラブル)「ボー」に強い揚音符(アクセント)をつけてまた幾度か「ストロンボーリ、ストロンボーリ」と叫んでいた。月夜の海は次第に波が高くなって、船は三十度近くも揺れるので、人々はもうたいてい室の毛布にくるまって、あす着くナポリの事でも考えているだろうに。……
(大正九年十二月、渋柿)

0