干支(えと)とは・・・
年の瀬が迫り、新しい年が近づくころになると、次の年の干支のデザインが年賀状や暦をはじめ、縁起物として置物や室内装飾、その他日常の種々様々なのものの中にあふれて、人々の注意を引く。こうして旧年のうちから自然に新しい年を迎える気分になるのが、戦前戦後を通して少しも変わらない日本の正月であって、新年と干支とは、日本人にとって深いつながりがある。同時に干支などとは、およそ関係がないと思われるような若い人でも、自分の生まれが、申年とか酉年などということぐらいは知っていて、その年の生まれの特徴などもわかっているようである。
また、女性に「えと」を聞くのも失礼にあたる。それは、干支は12年で一巡するため12才の年齢差は歴然としており、年齢がわかってしまうからである。
このように新しい年とその干支、自分の生年とその干支、について大多数の日本人はよく知っている。にもかかわらず「干支」そのものについては意外に漠然としている、というのが実状ではなかろうか。
えと(干支)は干と支が示すように十干と十二支が由来であるが、十干とは?十二支とは?なぜ「えと」と呼ぶのか?。
詳細は(中略)時間のない方に簡単に説明する。
十干は日の順序を示すための符号(数詞)であり、十二支は十二か月の順序を示すための符号(数詞)であった。その十二支に”ねずみ・うし・とら・・・”の十二支獣が当てられ、さらに、十干と十二支を組み合わせて最小公倍数である60の干支が考え出され、年・月・日に結び付けられて60年周期の記年(日)法として連綿と続いてきた。
また、十干・十二支ともに、陰陽五行思想と深い関わりがあり、その組み合わせである六十干支も陰陽に分けられる。陰陽思想では陽は強いものとして兄(え)、陰は弱いものとして弟(と)を当て、60の干支それぞれに兄(え)弟(と)が対応する。そして、干支の十二支獣で生まれ年などの年を表し、その干支の兄弟(えと)の呼び方から干支を「えと」と呼ぶのである。
十干(じっかん)
十干(じっかん)は、暦などにおいて年と日を示すほか、日本では戦前の小学校において生徒の成績を示す記号として学業成績表に記載されたり、また徴兵検査の際には、甲種、乙種、丙種などのように使われていた。現代でも、危険物や酒類の分類区分のための序数などにも利用されている。
十干とは、甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)の総称である。
もともと十干は、日の順序を示すための符号(数詞)であったと考えられる。つまり、一ヶ月を上旬・中旬・下旬と、三つの旬に分けた場合の、一旬に含まれる十日間の一日を示す数詞であった。
十という数字は、物事を分割して考えるのにははなはだ都合が良い。小学生が学ぶ現代の十進数と同じように、古代の人々にとっても、手の指五本を双方足せば10になるのだから、わかりやすく大変に便利だったに違いない。
連綿と打ち続く日々を、いかに区切って意義つけていくかは、古代中国人にとって大問題であったろう。月の満ち欠けを30日(または29日)とし、それを三つに分けて10日ごとに旬を置き、さらに10日を十干に配していくという発想は見事というほかはない。
十干の起源 は,中国の殷(いん)の時代(一説には漢時代)にさかのぼることができるといわれている.殷の時代(紀元前14,15世紀頃)には,十日を一旬として占う卜旬(ぼくじゅん)が広く行われていたが,この十日ごとに循環する日を表示する数詞として十干が用いられた.
十干の語源は、草木の発生・繁茂・成熟・伏蔵の過程を10段階に分けて名づけられたもので、陰陽思想の応用である。
十二支(じゅうにし)とは
十二支は、子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゅつ)・亥(がい)の総称である。
十干と同じくいつの時代にできたかはっきりしないが、すでに殷の時代には使われていたともいわれる。
初め、十二支は十二か月の順序を示すための符号(数詞)であった。
月の十二支(十二辰)は、草木の発生・繁茂・成熟・伏蔵の過程、つまり陰陽の消長する順序を十二の段階に分けて名付けたものである。
中国の戦国時代(紀元前480〜247年)の頃より、十二支に動物名をあてて呼ぶようになった。これが十二支獣といわれるものである。十二支に使われている子や丑の字には、元来ねずみや牛の意はなく、子を「ね」、丑を「うし」と読むことは十二支獣の時以外にない。十二支の名称は、中国歴代王朝の暦を周辺の未開の地方に伝えるためには、子・丑・寅などの単なる記号に代えて、覚えやすい動物名を配したものといわれる。字も読めない人々に対して、子(し)・丑(ちゅう)・寅(いん)などという、抽象的で難しい字を覚えさせるより、動物名をあてはめた方が都合がよかったのであろう。さらに、単に月を表わす記号であった十二支は、後に年・日などを繰るための記号としても使われるようになる。周代において、十干と組み合わされて十干十二支(六十干支)となり、連綿と打ち続く日(年)を表示するようになった。
月の十二支が十二ヵ月の各月の特性を示したものであるように、もともと時の十二支は一日における十二刻の特性を示したものであり、方位の十二支は十二方位の特性を示したものであった。十二支は十干とを組み合わせて記年法や期日に用いられるほか、月名や時刻や方位にも使用されている。
子の刻は午後十一時より午前一時まで丑の刻は午前一時から三時までと十二支を二時間ずつに割り当てている。
また子の方角とは北を指し、卯が東、午が南、酉が西を指す。子と卯の間に丑と寅があるから「うしとら」の方角といえばその真ん中で東北を指し、艮の一字で「うしとら」と読む。同様に卯(東)と午(南)の間に辰と巳があるから、「たつみ」と言えば東南を指し巽の一字で「たつみ」と読む。以下南西は「ひつじさる」の方角で坤の字を当て、北西は「いぬい」で乾の一字で「いぬい」と読む。また子午線とは南北線のこと、卯酉線とは東西線のことである。
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暦とり
では、今年の亥は??次回ご報告します。

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