白い人  エッセー

白い人(六月十五日)

この頃テレビを見ていると、色白の女性が増えていることに気づかないだろうか。

女性は老いも若きもどんどん白くなって、それこそ抜けるように白くなってきている。

それほど厚化粧でなくても、顎から首筋の白さがきわだって、花魁のように見える。

ほとんど銀色に光るパウダーを、眉の上下、額、頬骨にハイライトとして使う化粧方法も関係しているようだが、それ以前に皮膚そのものが白くなってきている。

つまり、皮下のメラニンの層がなくなりつつあるのではないだろうか。

つい数日前も、テレビを見ていてびっくりした。

ある高名な女性登山家が、今ふうに抜けるように白くなって出ていたのだ。

彼女は登山家だから、強い紫外線にさらされ続けた肌を持っていた。

テレビでは、ほかの女性たちと並ぶと、どうしてもその黒さが目立っていた。

でも登山家なのだから、それは仕方がない。当然である。

それが今週はすっかり白くなって出ているのだから、びっくりもするだろう。

テレビ写りはすっかり良くなって、まるで四六時中屋内で働く、看護婦か美容師のような印象だった。

買い物に行くと、美白化粧品がいっぱいだ。

最近の化粧品は界面活性剤が入っていて、一旦、皮膚のバリア機能を破壊してから、ビタミンCなどを入り込みやすくしている。

だから、美白化粧品を使っている場合は、日焼け止め化粧品も併用しなければならない。

その他に、現在は三十分くらいで白くなる美容技術もある。ある種の光を照射して、皮下のメラニン層を破壊、分解してしまう方法だ。

この技術を取り入れている美容形成外科は、一年以上先まで予約がいっぱいだそうだ。

本物の白色人と並んでも、日本女性の方がもっと白い皮膚を持っているという、奇妙な現象がそこここに起きている。

このままでゆくと、日本女性は白い肌を持った黄色人となる日も、そう遠くないような気がする。

マイケルジャクソンは、「免疫機構が狂って白くなった」と言っていたような気がするが、彼もこの白色化技術を試してみたのかもしれないなあ。

個人的には、マイケルは黒かった時の方が、ずっとチャーミングだったと思う。

日本女性が白くなってきているのに比べ、日本男性は逆に黒い皮膚を追及しているようにも見える。

俳優や若いお笑い芸人でさえ、まるで冒険家のように日焼けした顔をしている。

女性はなぜ白い肌に憧れるのだろう。
「美しくなりたいから」という答えが聞こえてきそうだ。

では、白い肌はなぜ美しいのだろう。

『白い人』『黄色い人』『アデンまで』は、故遠藤周作氏の小説で、三部作のように取り上げられることが多い。

「白」や「黄色」は、もちろん皮膚の色のことで、人種のことでもあり、その背景にある文化のことでもある。

歴史が培ってきた観念体系や価値基準に、知らず知らずに影響されて生きている個人の内面の象徴でもある。

この小説を読むと、「白い肌」が美そのものではないことに気づく。

小林秀雄が、花が美しいのではなく、花を美しいと感じさせる何かが、我々の意識下にあるのだというようなことを何かで言っていた。

白い肌を美しいと思わせる何かが、意識下にあるのだ。

実際には、肌の色などは、そして容姿なども決して美の基準にはなりえない。

我々が感動するのは、やはりその人間性に打たれるからである。

「白い肌」を美しいと思うのは、単にどこかで植え付けられた観念であり、先入観に過ぎない。

我々のあらゆる感覚や価値基準はいったいどこからやってきたものなのだろう。

答えをうるのはなかなかむずかしいことだが、今日はちょっと問題提起をやってみた。



総理大臣の別荘  エッセー

総理大臣の別荘(九月七日)

小泉元総理大臣はメールマガジン「らいおんはーと」を発信していたが、現在も何かそれらしいものを発信しているのだろうか。

新総理大臣のメルマガを受信していて、官邸の居心地などを読んでいた。

官邸は、昭和三年の第三代田中義一総理の時から使われていて、小泉総理が四十二代目であるそうだ。

お化けが出るといううわさがあったが、小泉総理の頃は確認にはいたっていなかった。

セミの声や小鳥の囀りも聞こえ、なかなか快適だと報告していた。

来春には新しい官邸に引っ越すことになっていた。

こうした短いメッセージを読んでいて、思い出したことがある。

田中義一総理大臣のことである。

三十数年前のこと、田中義一元総理の那須の別荘に招待されたことがある。

乗馬雑誌に載っていた「乗馬つきご招待」に応募したら、当選したのだ。

平凡な一市民である親子としては、総理大臣を務めた人の別荘で過ごす三泊四日に胸が弾んだ。

ところが、行ってみてびっくり。屋敷は丈高い樹木に隠れるようにあって、陰気なことこのうえない。

着いた日は、晴れて青空が広がっていたのに、その庭に入ると、頭上から滴が落ちてくるほどに湿っぽいのだ。

建物の周りには、蒐集した古い陶器類が散乱状態で置かれ、浅い小皿のようなものにまで雨水が溜まっている。

「いかにも、蚊に悩まされそうだ」

屋内に通されてまたびっくり。

一階は、暗く狭い廊下から納戸のような小部屋にまで、ぼろぼろの古臭いものが山積みである。

遠慮しつつも、気になって仕方がないから、チラチラ盗み見れば、多くは戦争に関係したもので、軍刀、馬具、毛布、軍靴、国旗などである。

壁に貼られた千人針の布の隣に、同じように広げられている国旗があった。

中心の日の丸から放射状に寄せ書きされている国旗は、どうも血潮を浴びたもののようだ。

「気味の悪い所だなあ」。これが第一印象だった。

あてがわれた部屋は二階だった。

室内は片付けられていたが、納戸のように暗い。

その隅に蚊帳が一張り用意されていた。

そのうち、天井からゲジゲジが降ってきた。

考えてみれば、昭和初期に建てられた家屋のこと、いくら総理大臣の別荘といったって、この程度のものだったのだと、初めて気がつく。

現代の普通の民家のほうが余程立派だ。

夜の食事になって、ようやくいろいろなことが分かってきた。失礼かとも思ったが、いろいろと質問したのだ。

宿泊最初の夜の食事はジンギスカンであった。

いわゆるスキヤキの肉がヒツジ肉のものだと思ってもらってかまわない。

管理人は、この湿っぽい環境に結核でも患っているかのように、病的に透き通るような青白い皮膚をしていた。

目の色に、なにか極端なものが混じっている。

ジンギスカン鍋をすすめられながら聞くには、彼は、やがて戦争博物館を作る計画を持っているのだという。

ちょっと離れたところにある乃木神社には、参詣を欠かさないとも言っていた。

我々が招待者に選ばれたのは、なんのことはない、ただ、彼と同じ苗字だったからだと知る。

数年前、那須に行った時、途中「戦争博物館」なる建物をみつけた。

「あっ」と思った。きっと、彼だ。

彼は夢を実現したのだ。こんなことをやるのは彼しかいない。

それで、車をUターンさせて寄ってみた。

館主は外出して留守だったが、みやげ物の所にいたおばさんに聞いてみると、館主はやっぱり彼だった。

今年の終戦記念日は、総理の靖国参拝の件で国内外ともかなり揉めた。

連日、テレビもそれを取り上げ、総理の繰り上げ参拝から、一五日当日の各閣僚や都知事の靖国参拝の様子などを放映し続けていた。

そんな画面の中に、偶然にも彼をみつけた。

彼は陸軍の軍服に身を包み、一般国民の参拝者の列に混じって、ゆっくりと歩を進めていた。

奥歯をかたくかみしめているあの青白い顔は、あの時とさほど変わっていない。

そんな彼の姿を見ていると、戦場で血を吸ったあの国旗が思い出された。

戦場で散った幾多の命の上に、今の日本があるというのは、本当のことなのだ。

我々はそれと気づかぬうちに感謝と敬意を忘れ、今日も笑って過ごしている。


タグ: 総理大臣 別荘

痩身のインド人  エッセー

痩身のインド人(六月十二日)

7時起床。早起きをして、日が高くなる前にゴミ出しをしようと思っていたのに、昨夜遅くまでテレビを見ていたせいか、寝坊をしてしまった。『小錦のアーユルヴェーダ痩身法』というのを、たまたま見かけ、つい最後まで見てしまったのだ。

治療法も興味があったが、画面にみなぎるインドの強い光に、つい、目が釘付けになってしまったのだ。

向こうの光は、直射という形容がじつにぴったりの感じがある。

インドといえばガンジス川での沐浴であるが、ガートのあるベナレスのことを、最近はヴァラナシと呼ぶようになっているらしい。

古い呼び方に戻りつつあると言っていた。

ヴァラナシの前の呼び方はカーシーであって、「光の町」という意味である。

小錦はその巨体を小さく戻すために、いろいろと苦心を重ねているが、一旦巨大化した細胞を縮めるのはなかなか大変なようだ。

昨夜も足ふみのオイルマッサージや、海底の土を泥に溶かしたものを塗られたりして、傍目には、いいようにいじくりまわされているようにしか見えなかった。

小錦のような巨躯は、インド人にはいったいどんなふうに映るものだろうか。

経済先進国のように、肥満を不健康と見るのか、それとも裕福の象徴と見えるものか、そのあたりを知りたかった。

日本に出稼ぎに来ているインド人たちと、ひょんなことから付き合いのあった時期がある。

彼らはヒンズーではなく、いずれもイスラミであった。

留学生ではなく、出稼ぎできていた人たちであったから、コックであったり、宝石商であったりだった。

たいていは細身であるが、なかにはでっぷりお腹の突き出た人もいた。

細身の人は、痩せているといっても、日本人の痩せとはちがって、骨格はしっかりしていて、余分な脂肪が見当たらないという感じであった。

ズボンの裾が風にはためくような、そういう細身の人の学歴は、たいてい小学校卒止まりで、なかには小学校の三年までしか行けなかったという人もいた。

しかし、たった三年にしろ、とにかく学校に行った経歴があることを自慢であるふうだったし、「奥さんは小学校に六年間通った人だ」ということを、栄誉なこととして話していた。

一方、でっぷり型の人は、高等教育を受け、その子息、子女もまた現在大学生であったり、医師の卵であったりした。

家族の写真を見せられたが、ガリガリに痩せている者はなく、奥さんもまるまるだし、子供たちもみんなふっくりしていた。

インド人は、一見、骨の形が分かるほど痩身の人が多いけれど、あれはやはり経済状況が太るのを許してくれていないのではなかろうか。

しかしである。その痩身の人たちの食事の仕方を見ていると、一回の食事の量がはんぱじゃない。

我々の三倍から四倍の量を食べるのだ。

一度にあんなにたくさん食べて、よく胃が重くならないものだと驚いて見ていた。

そういう毎日を一年間続けても、彼らはいっこうに太ってはこないのだった。

不思議である。カーストの長い歴史が、階級の細胞においても、それぞれ何がしかの影響を学んでいるのではないだろうか。

そうでなければ、カーストの長い歴史が階級に特有の腸内細菌を養ったのかもしれない。

普段の食べる量ははんぱじゃないのに、ラマダンに入ると、きっかり水以外は断ち、日暮れまで、空腹をつぶやきすらしないことも驚きだった。

太陽が沈むと、彼らはすっかり空っぽの胃に、再びどっさりの食事を送りこむのだ。

インドに戻った彼らが、今もあのようにどっさり食べているのかどうかは分からない。

むしろ、そうあってくれたらよいと思っている。



タグ: インド人

祖々父のこと  エッセー

祖々父のこと

ある時、母から意外なことを聞いた。

祖々父は、イワシを食べ、それにあたって死んだというのだ。

六十数年前の六月のことである。

名は兵松(ひょうまつ)。享年七十三歳。

松ケ江村の村議を何期か務め、酒豪であった。

彼は死の前日の夕方、イワシを自らさばき、刺身にしてショウガで食べた。

その夜の酒は焼酎で、何人かの村の客があった。

翌日、彼は自宅前の道に出て、一望に広がる水田を眺め、それから畦に下りて行った。

初夏の陽射しの下、青い早苗が健やかに根を張っているかを確かめるように、畦という畦を歩いている姿が遠く見えた。

帰ってくるなり、彼は若い嫁に言った。

「すまないが風呂を焚いてくれないか」

若き日の母は、大急ぎで風呂を焚いた。

風呂に入った彼に呼びつけられ、行ってみると、今度は粥を作ってくれという。

粥を作って持ってゆくと、彼は風呂桶に入るための、踏み台に腰掛けて食べたそうだ。

しばらくすると、また呼ばれた。

「すまないが、水を一杯たのむ」

水を持ってゆくと、すでに祖々父は死んでいたのだそうだ。

この話からは、イワシにあたって死んだのかどうかははっきりしないが、身近にいた者がそう言うのだから、ほかにも何か兆候があったのだろう。

買ったイワシの数は不明。

何人が食べたのかも不明。

翌日の死亡者は、村では祖々父一人である。

その朝に揚がったイワシであっても、氷もなく、保冷や冷凍技術もない時代のこと、初夏の太陽の下、一日中魚売りの背中にあったイワシは、すでにいたんでいたことは想像できる。

ほんの七十年前なのに、そのころはまだリヤカーさえめずらしく、物売りはみんな背負って売り歩いていたそうだ。

リヤカーは、村には祖々父が持っていた一台きりだったのだそうだ。

この話を聞いた時、なぜか笑ってしまった。

人は生まれる時はだいたい似たようなものだが、死に方はいろいろだ。

リルケはバラのトゲで死んだし、家康はテンプラで死んだ。

どんな死に方でも、たった数十年で、笑って語れる思い出になってしまうのかもしれない。

数十年も憶えてもらっているだけ、幸せなのかもしれない。

母がそんな話をしなければ、このエピソードは母の死とともに消えてしまっただろう。

母がふと、なにかのせいで思い出し、つぶやいたせいで、さらに数十年、兵松じいさんの死は(思い出は)命を永らえることになった。

そして、母のこの一言は、これまで知らなかった若き日の母の姿をも、くっきりと想像させた。

もしかしたら、後になって母を思い起こすとき、母は庭をおおう柿の若葉に青く染まって、祖々父の言いつけに忙しく行き来している姿で思い起こされるような気がするのだ。

不思議なことではある。



タグ: 祖々父

実家  エッセー

実家

最近、「実家」という言葉が気にかかっている。

若い男性が平気な顔で、「実家に行ってきた」とか、「実家で過ごしていた」とか言っている。

明らかに未婚と分かる女性の中にも、同じような使い方をしている人がいる。

かのキムタクも、ヤクマル君も、福留さんまでが言っていたなあ。

「実家」とは、結婚をして家を出た女性が、それまで住んでいた家をさす時に使う言葉である。

「女は三界に家なし」なんて言われていた時代があるが、「実家」は、そういう時代から、新しい家庭を持った既婚の女性の生家や、両親の住む家をさす言葉だったのだ。

もしかしたら、結婚をして家を出たが、妻の姓を名のった男性も使えたかもしれない。
つまり入り婿となった男性の場合である。

したがって、「実家」という言葉は、家を出てアパートに暮らしていても、未婚の女性や大方の男性の言葉ではないのである。

男性であっても、「妻の実家で過ごした」などという使い方は可能である。

こんなふうに、「実家」の意味がはきちがえられるようになったのには、戦後に施行された「家長制度の廃止」が大きく関与しているのではないかと思える。

家は、昔は本家と分家に分かれていた。

結婚をして家を出た男性は、「分家」を構えたのである。

しかし、家長制度が廃止されて五十年も経った現代では、結婚したからといって、「分家を構えた」などとは誰も認識しないだろう。

「分家」という言葉は、過去の歴史を話すときか、六十歳代以上の人でなければ通用しないし、若い世代においてはなきにひとしい。

それでも「実家」という言葉を若い世代が知っているのは、彼らの母親が使っているからで、しかもその意味を勝手に解釈して使っているのだろう。

では、結婚して家を出た男性は、それまで住んでいた家を何と表現したらいいのだろう。

本来なら「本家に行ってきた」とか、「生家に帰ってきた」とか言うべきではある。

しかし、「分家」同様、「本家」もまた現代にあっては封建時代を描く小説の中の言葉である。

せいぜい「生家」という言葉しか残されていないような気がする。

でなければ、代替として、「両親のところ」とか、「兄貴の家」とか工夫するしかない。

あるいは、「里で過ごす」という言い方も可能かもしれない。

時代の情勢によって言葉の意味が混乱してきた時、それを指摘したり、矯正したりするのは、社会の中では誰が担っているのだろう。

国語審議会とか国語学者だろうか?
 
余談だが、離婚した女性が生家に戻った場合は、「実家に戻った」である。

しかし、離婚しても生家に戻らずに暮らしている女性は、やはり、「実家」とは言わずに、「生家」を使うべきではないだろうか。

若い男性が、未婚、既婚にかかわらず、平気で「実家」を口にしているのを見かけると、どうも女性化した男性を見ているようで違和感がある。

また、未婚の女性が平気で「実家」という言葉を使っているのに出会うと、何かすでに、「結婚に似た経験をもっている女です」と、暗にほのめかされているようで、こちらとしては居心地が非常に悪いのである。

タグ: エッセー 実家

七宝焼き  エッセー

すごい夕焼けの夢をみた。

暗い紫から明るいピンクの間の、あらゆる色が展開されているかのような西の空を、どこか小高い所から一望していた。場所はわからない。

「この空は、絵や写真や文章でなら表現できるだろうが、七宝焼きでは無理だろうな」などと思いながら見ていた。

あんなに凄い空を目の前にしていたのに、歓声をあげるでなし、ため息をつくでなし、腕を広げて深呼吸するでなし、なんであんなことを思っていたのだろう。

いささか損をした気分だ。

それに作家という人たちは、表現したい何かを制作以前に持っているはずだから、あのような特殊な色の祭典を見たり、想像したら、七宝焼き作家であっても必ずや挑戦するだろう。

表現のために、技法を模索しつつ挑戦するだろう。

七宝焼きというのは砂状に粉砕したガラスを、銅版や銀板などに盛りつけ、焼成、熔かして、デザインしたものを仕上げる技法である。

日本最古の七宝焼きは、正倉院御物「瑠璃鈿背十二稜鏡」である。

中国のものか、あるいは中国から伝来した技法で日本でつくられたものか、未だ分かっていない。

桃山時代になると、朝鮮からの技法が入ってきて、襖の引き手や刀の鍔などに競って施されるようになった。

現代の七宝技法の基本のようになっている西洋七宝は、江戸後期になってから伝えられたものである。

愛知県の七宝町は近代七宝の技法を開発したことで有名である。

七宝焼きで使う釉はガラスの粉であるから、どんなに細かに粉砕したとしても、水には溶けない粒子である。

絵の具なら水に溶け出すから、混ぜ合わせて中間色を作り出せるが、七宝焼きではそれができないのである。

したがって、見た目のぼかしはある程度可能だが、澄んだ色のグラデーションチャートを作るのは、経験による勘を持ち、重ね焼きを繰り返せるよほどの熟練者意外はほとんど不可能に近い。

現代のように人間の心がますます複雑になってきている時代には、色数もそれだけ必要とされるわけで、単に装飾性を優先させるなら別としても、表現はかなり制限される。

しかも、デザインを起こすためには鍛金や彫金などの技術も必要であるし、理想の色を追求するためにはガラスの色から作らねばならない。

したがって分業が行き渡っている。

しかし最近では、七宝の材料や技法もかなり開発が進んでいる。

新しいところでは、シルクスクリーン技法やシート技法がある。

シルクスクリーン技法は、簡単にいうと、「プリントごっこ」の技法やステンシルの型抜きの応用で版を作り、絵の具やインクや染料の代わりに、ガラス釉をふるい落として盛りつける。

シート技法は、紙よりも薄いシート状の釉を、好みの形に切って模様を作る。

金や銀、プラチナのシートも出ていて、一昔前なら熟練者しか体験できなかった複雑な模様も、手軽に楽しむことが可能になっている。

シート釉を何度か重ね焼きすることで、中間色を出すこともできる。初歩的な段階の技法なら、初めてでもそれなりのものを七宝仕上げすることができるようになってきた。

教材や手芸店にも出回っている所以である。

七宝焼きでは発色を良くするために、普通は釉をていねいに洗い、粉状のものはすてるのが基本である。

細かになればなるほど、埃を焼きつけたような濁った色になってしまうからだ。

だが、ここで考える。

普通は捨てているあの粉状のガラスは、もしかしたら表現の幅を広げるものではないだろうか。

昨夜の夢の夕空は、薄雲がかかっていたから決して透明ではなかったし、不透明でもなかったのだ。

作家たちは、きっとこんなふうにして試行錯誤を重ねてゆくものなのだろう。

伝統の技法の手順は、いつかどこかで逆転させられることもよくある話だ。

人間の美の基準は変化することもあるし、伝統の技法が持つ表現力の壁を打ち壊さねば、先に進めなくなったりもするからである。


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自立  エッセー

自立

昨日一人の女性とすれちがった。年の頃は八〇歳代。

重そうなリュックを背負い、右手には太い枝の杖を握り、帽子の下の丸い顔は日に焼けて黒く、しわが深い。

だが彼女はなかなかの健脚のようだ。
アスファルトの道を、リズミカルにスタスタと歩いていた。

一時間後、先の場所から数キロ離れた上り坂で、再び彼女を見かけた。
あれからずっと、ここまで歩いてきたのだと少し驚いた。

健脚はいっこうに衰えていない。追い越す時にチラリと見ると、左手にピンクのコスモスを握っていた。

コスモスは道端にたくさん咲き乱れているから、途中できっと、きれいだなあと眺めて、持って帰って家に飾ろうと思ったにちがいない。

彼女の家はこの近くなのだろうか? 

もしもコスモスがしおれても、水にくぐしたりして、コスモスを蘇生させる知恵を彼女は持っているのだろう。

彼女を見て感じたことは、たったこれだけだ。

だが、「いいなあ」と思ったのだ。
彼女は美しかったのである。

彼女の姿は心に残って、夜になって布団に入っても、まだ彼女のことを想っていた。

彼女は誰に気兼ねもなく、平和な気持ちでその日を生きているような目をしていた。

あるいは、あの目の輝きは単にリズミカルに歩いているときの人間の目であったかもしれぬ。

もしもそうであったとしても、老いや暮し向きや人間関係のしがらみなどの重圧を全然感じさせていない印象があった。

つまりは、愚痴や不満や不安などの暗い色を全然持っていなかったのだ。

彼女が笑っているときの写真を撮ってみたいなあなどと思ったりもした。

そう思う一方で、現在のアフガニスタンの人々のことをも想っていた。

アフガニスタンの人々が、昨日遭った彼女のように明るく、平和で、自信にみちた目を取り戻せるのはいつのことだろう。

今回のテロ撲滅作戦から発展した戦争を、少しでもよく知ろうと世界地図を買ってきて、壁に貼りつけた。

情報網が発達して地球はせまくなったが、地図を見ていると世界はまだまだ広い。

世界を広く感じさせるのは、一方に人権を保障されて生きている人々がありながら、ある所には人権をいまだ抑圧されて暗い目をみひらいている人々がいるゆえの不公平が平気なままで散在しているからだ。

映像で送られてくるアフガニスタンの子供たちは、絶望した大人のような目をしている。

政治とはいったい何なのだろう。権力とはいったい何なのだろう。

国とはいったい何なのだろう。

宗教とはいったい何なのだろう。

権威とはいったい何なのだろう。

自分の命ばかりではなく、他人の命まで捧げて惜しくない神とは、いったい何なのだろう。

地球上に絶え間なく続く紛争や戦争には、いつもこれらが関係している。

これらを地上から一掃して、近代化が公平に行われるのはいつのことだろう。

そんなことは不可能に近いほどの時間を要するから、かつて故国を捨てて新大陸をめざしたように、もしかしたらある人々は、地球を捨てて宇宙へ飛び出し、隠密裏に新しい世界を創造しようとしているのではあるまいか。

新大陸をめざした時は、神の叡智である教義の解釈のちがいからであったが、宇宙へ逃れる人々は人間の叡智を理想とし、信念としてくれるかもしれない。

願わくは、そうであってほしい。

タグ: 自立 エッセー

山中のアヒル  エッセー

山中のアヒル(九月二十五日)

昨日の夕方、隣町のダムまで出かけた。

長袖シャツ一枚には夕風が冷たく、この季節、出かけるときの服装はあなどれないと肝にめいじた。

ダム湖に沿って走っていると、上手の方から何か白いものが流れてくるのが見えた。

鳥のようだ。

白鳥? まさか、まだ早すぎる。

しかし、怪我でもして去年保護された白鳥ということも考えられる。

ダムのなかほどで車を降り、近くを散策することにした。

するとまもなく、さっきの白い鳥が湖を下ってくるのが見えた。

最初に鳥を見かけたところから1kmくらい下流であることを考えれば、かなりの速さだ。

鳥は湖の中に顔を出している石のところまで来ると、急にリラックスしたように羽を広げたり、羽づくろいをし始めた。

石の小島の面積は二uくらいで、島の近くにはダムが造られた時に沈んだらしい枯れ木が立っているが、草などはない裸の島だ。

双眼鏡で覗いてみると、鳥はアヒルであった。

くちばしが黄色い。

人の声が聞こえたと思い、双眼鏡をはずすと、アヒルに向かって釣りのボートが近づいていた。

ボートの上の三人がなにやら騒いでいる。

山中のダム湖の真中にアヒルがいる珍しさに声をあげているのだろう。

あたりが暮れなずんでも、アヒルは島から帰らない。

月が輝きをましてきても、アヒルは帰ろうとしないどころか、石の小島の上に上がり、うずくまったり、立ち上がってはまたうずくまったりを繰り返している。

そのうち、アヒルはとうとう白い大きな卵のように丸くなってしまった。

石の上で夜を過ごすつもりらしい。

冷たい風の吹き渡る湖の上で夜をしのぐということは、アヒルは飼われているわけではなさそうだった。

きっと、誰かが捨てていったのだろう。

以前、知人が「アヒルを山に捨ててきた」というのを聞いて、唖然としたことがある。

それにくらべれば、あのアヒルは水辺に捨てられたのだから、まだしもとは思う。

こんなに大きな湖を、誰にも気兼ねなく、自分の湖として使えるのだから、、、。

それにしても、人間世界から見れば、これはルール違反というものだ。

あのアヒルは、でも賢い。

最初は、「なにも、こんな寒いところで夜をこさなくても」と、思った。

だが、よくよく考えれば、あの石の小島は、吹きさらしの湖上とはいえ、キツネやイタチに襲われる心配のない、ぐっすり眠れる場所なのだろう。

それにしても、真冬はダイアモンドダストが見られることもある寒い山中だ。

アヒルはこの後どうなるのだろう。
   
昨夜から、我が家は毛布を使い始めた。



タグ: アヒル




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