朝顔と七夕  エッセー

朝顔と七夕


七月六日。

東京入谷の朝顔市が始まった。

浴衣姿や素足に下駄、そして片手に朝顔の鉢などをイメージするが、現実はどうだろうか。

入谷の朝顔市は明治の中ごろから始められたらしい。

最近ではあまり聞かなくなったが、朝顔といったら以前は一夏に一度か二度は千代女の句
「朝顔につるべとられてもらい水」を聞いたような気がする。

国語の時間にも習ったが、それ以前に、親たちの年代がすでにこの句を知っていて、朝顔が咲けば、その前で子供たちにこの句を聞かせていたように思う。

母の庭には毎年、濃いピンクの小ぶりの朝顔が咲く。マルバアサガオだと思う。

前年におちた種から芽吹くので、どこに顔を出すかは分からないが、どこに出てきても良いことにしているようだ。

たいていはツツジやレンギョウなどにからみついている。

朝顔は晩秋になってもまだ咲きつづけて、庭の整理のときに、「もう、一緒に刈り込んでしまおうかな」と、毎年思う。

そんなとき、こちらの心中を見透かしたかのように、必ず母の声が飛んでくる。

「朝顔は残しておいてね」

そうして朝顔は、何度も何度も霜にあたって、ついに枯れるそのときまで咲きつづけるのである。

朝顔の種を一度だけ蒔いたことがある。

曽野綾子の小説『天上の青』を読んだ翌年のことだ。

「ヘヴンリー・ブルー」という青い朝顔を育てている波多雪子のもとに、ある朝、通りがかりの男が声をかけてくる。

「きれいな青だなあ」

その後に起こる殺人のすべてが、この瞬間から始まってゆくのだ。

これを読んでいたときは、戸締りをしても恐ろしくて、ネコが立てる物音にも息を詰めていた。

そんなに恐ろしい思いをしたのに、翌春、わざわざ種をさがしてまで播いてみたのは、やっぱりその朝顔の「天上の青」を見てみたかったからだ。

朝顔は、最初は漢方薬として奈良時代の終わりごろに、中国、朝鮮から伝えられた。

種を「牽牛子(けんごし)と呼んでいたが、だんだんに朝顔そのものをさすようになった。

観賞用の花になったのは安土桃山時代あたりからで、江戸時代になると品種改良が進み、色がふえ、形も大きくなった。

そのころ、朝に咲く美しい花ということで、「朝容花(あさのかたちばな)」という意味の朝顔に変化した。

中国の七夕伝説では、織姫星のことを朝顔姫と呼んでいるそうだ。

朝顔の花は織女星で、朝顔の種は彦星ということになる。

母が好んだ色が鮮やかで、花期の長い小ぶりのマルバアサガオは、観賞用として江戸時代に渡来したとなっている。

子供のころ、七夕の朝は母と畑に出かけ、里芋の葉の上に水銀のような玉を結んでいる露を集めたものだ。

その銀の露で墨をすり、短冊に願い事を書き、笹の葉に下げるのである。

里芋の上の露は葉の成分を吸っているのか、洋服につくとシミになってとれなくなる。

ほんのちょっと葉が傾いただけでも露は葉の上をころがってしまうので、無作法に歩いて露をこぼさないようずいぶん気を使ったものである。

七夕とか天の川はいかにも夏のものの感じがするが、旧暦だったころとは季節がずれているので秋の季語である。

また、万葉集には朝顔を詠んだものが百三十首以上もあるそうだ。

中国の七夕伝説では、天の川の東に住んでいる織姫が、川向こうの牽牛に会いに行く形をとっているが、日本では牽牛が織姫に会いに行く形である。

これは、万葉時代の日本の結婚の形が通い婚で、男が女のもとに通っていたことによるとのことである。

七夕といえば仙台が有名であるが、青森の「ねぶた」、秋田の「竿灯祭り」なども七夕の祭りである。


     参考文献 『語源博物館』ほるぷ出版

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タグ: 朝顔 アサガオ 七夕



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