四国の新居浜の近くにある「別子銅山」の記念館に寄ってみた。
これも鳴戸の美術館に行った帰り道だが、わざわざ高速道を降りて、割と近かったのでその気になったのだ。
以前から、別子銅山の公害など、教科書で読んでいつかは行って見ようと思っていたのだが、中々行く機会が無くて、それで今回の訪問となったのだ。
記念館そのものはそんなに大きくなく、ひっそりとしていた。
ここは、住友グループが金を出し合って運営しているようなことが書いてあった。
銅山その物の歴史は古く、室町時代くらいからだそうで、その変革など詳しく展示していたが、銅山が始まってから、公害が始まっていたのだが、時代と共に産出量が多くなり、それにつれて山は禿げ、水も汚れて被害が大きくなっていった
記念館は撮影禁止になっていて、一枚も撮る事が出来なくて残念だったが、公害の部分については、ざっとしか記述が無くて、もっと知りたいって思いを残してしまった。
それより「住友財閥」の記述や写真が多くて、ふ〜ん?って気がした。
この記念館の数キロ先に、鉱山の跡地を利用したプレイランドなどがあり、夏場には訪れる家族連れも多くて賑うって職員の方が話されていた。
今は冬季で通行禁止になっているんだそうだ。
鉱山の模型なども展示してあって、写真に撮りたかったのだが、禁止のせいで、もう今やだいぶ僕の記録は不鮮明になり残念だ。
こんなことなど、学校や新聞やTVや本などで知った歴史的な事実など、自分でよっこらっしょって腰を上げなければ死ぬまで分からん事になってしまう。
これからも、観光地ばかりを周ってないで、違う見方で色んなものを見ていきたいと、本気になって思いました。
そう言えば、長崎の「軍艦島」なども、鉱山の中までは見れなかったけど、現地に立って説明を聞いたり見たりしただけで、いろんなことがよく分かったような気がしたもんだった。この島ももうじき立ち入り禁止になるって聞いた。
次はどこに行って見ようか?なぁ。
急がないとダメになってしまう遺跡も出てくるだろうしねえ。

このSLは、明治時代にドイツから輸入して、鉱山で使っていたものだそうだ。
これを導入するまでは、人力で30〜40sも鉱石を運んでいたんだそうだから、相当にひどい環境だったのが分かる。
資本家たちはいつの時代でも「労働者達」を安い賃金でコキ使っていたんだという事が分かる。
そんな事はどこにも書いてなかったけれど、、、。

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