2019/8/7

日本共産党へ―とある面談にて  憲法・社会・官僚・人権

2019.8.4、とある所で、日本共産党に意見を申してきました。
私の意見の要旨は下記です。ご参考までに。他の意見ともども、メモとして上部に提出するとのことでした。民主集中制を変更されるよう、期待します。
−党員は支部内でのみ交流議論してその多数意見を上にもっていく、上部委員も同様に選出する、それを何段階か重ねて指導層となる。党員は中央の決定を学習する、各支部等を超えて党員として交流してはならない、党と違う見解を公表してはならないというシステム。−

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本日は、自由な要望など聞いて頂けるのこと、寛容な対応に感謝します。

私、日本共産党のここ数十年の政策が多く支持できること、能力と意欲があり、真摯に活動している多くの党員を知るにつけ、政権の一翼を担ってもらいたいと以前から思ってきました。

しかしそうなりませんでした。
あと10年すれば「殆ど後期高齢者の政党」となります。やがて消え去りましょう。日本の政治を変えるためには、投票者のあと5%、有権者で言えばあと2.5%の投票行動として、日本共産党に入れてくれればいいのです。それを少し超えれば、与党の一角も担いうるのです。しかしそうならないままに今日を迎えています。

それはなぜか、率直に言います。
民主集中制です、これを廃止してください。これは40数年前から折に触れて言ってきたことです。今回、この場で言えることは幸いです。是非とも上級機関に伝えてください。

国民・県民は見ています。いろいろ工夫しても日本共産党の得票率はまず変わりません。それはなぜか、もはや自民党らのアカ攻撃のせいではありません。日本共産党自体に不信を抱かせる要因があるからです。

すなわち、代表の変更・政策の変更が、ボトムアップでとんと行われず、突如上部からの変更となっていて党内の議論が外から見えず、国民からの信頼を得ていないからです。
そのまま政権を握れば、日本国自体がそうなるのではないか、と著しい不安を持たせているからです。

国民は日本共産党が「いつも一枚岩である」ことなぞ求めていないのです。それは実質議論ができない組織だと示してしまうからです。いままで除名などされた党員、それがいかに実績ある人でも、その後は酷く非難される状況を見て、恐ろしさを感じるのです。

「前衛」だと自分を規定するのはご自由ですが、国民を馬鹿にしてはいけません。党は、いろいろな議論の上で、しかしその上の各時点で、まともな政策をとってくれればいいのです。

「党議拘束」というのがあります。他の政党でももちろんありますが、それは議論の上で当面、議員が一致させて1つの党なのだから拘束しあう、と言うものにとどまります。

日本共産党の「民主集中制」は「党議拘束」とは全く異なります。そもそも、民主集中制は言語矛盾です。軍隊ではないのです。党内民主主義のためには、左・右関係なくどんな政党であっても権力が集中しないことが必須です。

支部で4割の意見があっても上に伝わらず、一つ上で4割の意見となってもその上に伝わらずというシステム、そして最上級の決定を皆で学習するというシステムです。これを繰り返せば、少数意見はいつまでたっても下部での少数意見にとどまり、党の決定が硬直的なものとなること、当たり前のことです。

それでなくても、集団には「寡頭性の鉄則」があります。ヒト・モノ・カネ・情報が集中している指導者層が、権力を長く維持されてしまう傾向にあり、「民主集中制」は、むしろその制度的保障になってしまっているのです

しかし、それでも変わる必要があるから、突如、上の方から、変えられるのです。それでは国民からの本質的な信頼なぞ醸成されるはずがないではありませんか。

代表者の選出過程もまったく同じことです
。委員長候補というものがいて、その選挙過程が党員から見える、投票権があるとなったら、一般国民はどう感じるでしょうか。これが実現していないことも、国民からの信頼を欠いている決定的な原因なのです。

あるいは、いつか民主集中制の制度のままに、代表選出が党員の直接選挙による、と変わるかもしれません。しかし上の方が、突如提案があって変更する、というまた「上からの変更」をせざるを得ないのが民主集中制です。おかしいではないですか。

このようなことを党員以外が言うのはおかしい、と言う声も時にあります。それは間違っています。党員がそれを言うことには除名もあり得る大きな勇気が必要であり、ましてそれが上に、さらに上に伝わるものではありません。民主集中制なのですから。言語矛盾そのままです。

組織防衛のために必要、という声もあります。
確かに、その心配は過去あったでしょうが、しかし情報社会、コンピュータ社会、IT社会の今日です、民主集中制をとろうがとらなかろうが、把握できます。各人が腐敗、弱点を突かれないようにしておくことは、親しくしかし厳しく日々交流することでもっとも分かりましょう。党員を権力側から把握されてはならないから「民主集中制」という論理は、もはやなんら説得力がありません。

「民主集中制」は、党員間の支部を超えた交流、いくつもの広い交流のもとに進んでいこうとする党員各自の意欲と能力の活用を阻害しています。そんな組織であれば、若者が入りたがらない、入ってもやめてしまうことがままあるという状況は、当たり前のことです。

日本共産党が、「共産主義」をいつか実現したいというのは自由です。ですから、私は党名については今言いませんが、しかし共産主義は、党の制度として「民主集中制」を論理必然とはしていないはずです。

仮に、論理必然だなどと強弁するのであれば、日本共産党が完全な「部分社会」になってしまっており、むしろその指導層の専恣に任せる党になってしまっている、という自白でしかないと思います。「善意」であろうがなかろうが、専恣です。

過去100年になんなんとする歴史の中、民主集中制をめぐっては様々な経過があったことは、不勉強ながら知っています。失礼ながら、外から見て、不毛・有害無益の紛議であり、少なくない人の涙が流れました。当人らの立場に立って考えてみてもいいのではないでしょうか。

今、自民党は安倍政治の中、2015年安保法のみならず、改憲に突き進んでいます。もとより、後に国民を塗炭の苦しみの中に置くアベノミクスに執着しています。

一方、日本共産党は、このままであれば「民主集中制にこだわり、やがて後期高齢者の政党、そして消滅」していくこと必定です。それでは歴史形成責任というのもを果たさないと考えます。

有権者のうちの数%〜10%弱が、日本共産党の「民主集中制の廃止」による変化を感得してもらえれば変わるのです。
どうぞ、民主集中制の廃止を、真摯にご検討ください。
               
2019.8.4  滝本太郎
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