2018/12/21

薬物・内部死亡 1994.11.20陳述  カルト・宗教・犯罪

1995.3.22の強制捜査前、1994年秋に脱走して脱会した人の当職に対する陳述書の1つです。
1994.11.20付の、薬物・内部死亡についてのものです。

本人は勿論、その他の個人の本名で特定される部分など、今となってはまずいところを一部消してあります。

私が聞き取って、本人の確認のうえで住所、氏名、指印をもらったものです。これら情報は、告訴告発側弁護士として了解をもらって警察に提供していました。このように情報が集積され、警察も危機感を高めていったのでした。

まあ、1994年、オウム側は「11月危機」とも言ってましたね。

これほどの事実ではなくても、判決文には色々な事実が反対尋問も経て認定されています。そして多くの判決が、教祖の指示する処と言うことなど、色々な認定をしています。

それなのに「真実究明の会」なぞと言っていた輩がおり、これらも利用するアレフらは、入信対象者から聞かれると、「真実はまだ分からない」なぞと言っているのでして、実に弱ったものなのです


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2018/12/21

3つの手記 その3  カルト・宗教・犯罪

山中次郎 手記 東京拘置所の寒い日
 男性、30代、元出家者
 1988年2月入信、89年6月出家、99年夏脱会
2000年2月の手記


1 2000年2月、逮捕されて4年9か月が過ぎ去りました。私は今、東京拘置所の独房の中でこの手記を書いています。東拘の独房はとても寒い所です。
 オウムでの6年間の出家生活を思い出しています。私はずっと富士、または阿蘇の教団施設で生活しておりました。オウムの施設は山の中腹にあるものですから、冬は寒いおもいをしたものです。でもあのころは、それに耐えることができました。目標があったからです。

 「解脱・悟り」という自己の救済、「衆生済度」という他の救済。この目標が自分たちの活動により実現できると信じていました。オウムが、麻原が描き出した目標は、私の求めていたものとあまりにも合致していました。自己を高めたい、他のために何かをしたいと考える私は、あらがう術もなく、オウムに引よせられていきました。
「人は何のために生きるのか?」
この問いに対する答えを与えられ、その実現に向かっていると信じていたわけですから、オウムでの生活は精神的に充実していました。私は夢中になって、与えられたワーク・修行をやり続けていたのでした。
 その目標が完全なまやかしであると分かったとき、私は東拘の独房で隔離される身となっていました。なぜ、こうなるまで気付けなかったのか…。そして私はオウム真理教を脱会したのです。出家から10年の月日が流れていました。

2 拘置所からは食事と睡眠は十分
与えられている、と思います。少なくともオウムでの生活と比べると、ずっとマシです。おかげで体調もずいぶん良くなりました。
 オウムでの生活はヒドかった。偏った少量の食事しか与えられませんでした。私のワークは肉体労働であり、また日々のストレスが高じて、いつも腹をすかせていました。それで毎日、その空腹感と戦わなければなりませんでした。休息も満足にとれなかった。危険な長時間の労働。それだけでなく、一生では終わらないくらい、大量の修行課題を与えられていたからです。いつも何かにせかされている感覚がありました。そのような状況では、冷静にものを考えることなどできませんでした。

3 最近は法廷に出ることもなく、独房内で本を読んでいる時間が長いです。宗教書だけでなく、いろいろな分野の本を読むように心がけています。私はもともと本は読まない人でした。オウムに入信後は、オウムの書籍以外はまったく読まなくなりました。だから拘置所に来てから初めて本を読み始めたようなものです。
 よい本にはなかなか巡り合えないのですけれど、それでも何冊かのすばらしい本に出会うことができました。そういうときは、とてもうれしくなりますね。本を読むことによって、どんどん視野が広がっていくのを感じています。

 以前の私は、あまりに偏狭な独善的見方にとらわれていたことに気付きました。「オウム以外に真理はない。現世は悪のみで、価値がない」といった見方が、その典型です。これは誤りでした。一般の人の中にも、修行をしていない人の中にも、すばらしい人物はたくさんおられます。私は社会の暗部ばかり見てしまっていることに気付きました。そして一般の人をすごくバカにしていたことに気付き、それを反省しています。これからは広い視野を持ち、柔軟な考え方を身につけたいと思っています。

4 ここ数か月のことですが、急にものすごく人恋しくなることがあります。逮捕されて4年以上、そんなことは感じなかったのに、なぜでしょうか。私はオウム脱会後、少しずつ情緒といったものが復活してきたのかもしれません。それで私は思ったのですが、以前の私は爬虫類(冷血動物)のようだったと。

 カルトの教えは恐ろしいものです。人間として最も大事にしなければならないものを、いつの間にか失ってしまうからです。やさしい心、他を思いやる心、共感する心。こういった感情がさびついて、動かなくなってしまうのです。そのことを私は身をもって経験しました。そして二度とカルト集団に入りたくないと強く思っています。壊されてしまった人間性をいかに復活させるかが、今の私の課題です。私は人間をやりなおさなければならないと感じているのです。

5 たまに、面会・手紙をくださる元オウム信者の方がいます。そういうときは、とてもうれしいです。こんな私でも見捨てられていないのだと確認ができ、安心します。私は彼らのおかげで脱会できたのだと思います。一人で考えているうちは、オウムからの呪縛から脱け出すことはできませんでした。オウムのことを分析しようとするとき、いつも同じところの堂々巡り。オウム的思考でオウムを分析することなどできないのですが、そのことが分かっていなかったのです。またオウムだけしか私を受け入れてくれないと思い込んでおりましたし、自分のそれまでの10年間を否定することは、私にとって辛すぎました。それでオウムを分析し切ることができなかった。
 そんな状況を打ち破ってくれたのは、彼らの存在でした。彼らはオウムについての新しい視点を示してくれました。そして私のようなものでも受け入れてくれる環境があることに気付かせてくれました。私はオウムでは何も得ることがなかったと悲嘆しておりましたが、唯一得られたのは、これらの友人ではなかったかという気がしています。彼らのことはこれからも大事にしたい。彼らに深く感謝しています。

6 麻原に弄ばれてしまったこと。やはり無念の思いが強くあります。
「なぜこんなことになってしまったのだろう?」
私はこの問いを何度繰り返したかわかりません。私は確かに「良い人になりたい」と思って、修行を始めたはずでした。それが結果は「悪い人になってしまった」私は「社会に役立つ、必要とされる人」になりたいと思って、オウムに入信したのです。しかし「社会に迷惑をかける、排除されるべき人間」になり果ててしまった。私は「仏教の厳しい戒律を守る」つもりで、オウム教団に出家いたしました。「刑法すら破り、罪を犯す」ためでは、断じてありません。このことを考え出すと、私は心の動揺を抑えることができないのです。信じ切っていたものに裏切られた、悔しさ、情けなさ…。

 私は、自分が加害者になってしまったことが、とてもつらいです。私が麻原に騙されただけなら、どんなによかったか、と何度も考えてしまします。私はオウムを、麻原を信じるという、決定的な過ちを犯してしまいました。その過ちの結果、私が害を受けるのは当然のこと。その点についてはすでに心の整理がついています。

 オウムでは、「上司の指示はグル麻原の指示」とされていました。指示に疑問をもつことは、グルに対する疑念を意味し、弟子として恥ずべきこととされていました。下手すると、拷問・私刑のような「極厳」修行に入れられかねません。また、指示に従わなければ、オウムにいることはできなくなります。そのことは生活の基礎をすべて失ってしまうだけでなく、修行ができなくなり地獄行きになってしまうと思い込んでいたのです。
 このように、指示に逆らったり、説明を求めたりすることは困難な状況にあったわけですが、私はもっと勇気を持つべきだった、自尊心や良心を捨て去るべきではなかった。

 私は加害者となってしまった。私の選択の過ちにより、多くの人に被害を与えてしまったのです。私がすべての魂の幸福を願っていたからと言って、多くの人を苦しめてしまったことの言い訳にはなりません。私はそのことを自覚しています。そして取りかえしのつかないことをしてしまったことを自覚しています。その取りかえしのつかないことが、とてもつらい。私はどうすればよいのでしょか…。

 最後になりました。
私は第7サティアン・サリンプラントの配管、松本サリン事件の噴霧車改造作業を行ってしまった者です。この作業にあたっては、いつものごとく何の説明もなく、何に使われるかよくわからなかったとはいえ、上司の指示に無批判に従い、このような恐ろしいものを作ってしまいました。

 私のかかわった事件の被害者、そのご家族の方々に深くお詫びいたします。私が直接かかわらなかった事件についても、私のオウムでの活動がそれを容易ならしめたことは明らかである、と自覚しています。すべてのオウム事件で被害を受けられた方々に、たいへん申し訳なく思っております。私はこの罪を恐れず、自分が何をできるかを考え続けます。そしてそれを実行し、罪の償いをやり続けたいと思います。    以 上

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2018/12/21

3つの手記 その2  カルト・宗教・犯罪

渡辺恵美子 手記 暑い日
 女性、30代、元出家者
1992年7月入信、94年5月出家、94年10月脱会
96年8月6日の手記


 オウムを脱会後、何度か手記を書く機会がありました。1度目の手記は、脱会して4か月が過ぎる頃でした。その時は、まだ地下鉄サリン事件も、仮谷さん拉致事件も起きていなかった。でも、上九一色村でサリンの副生成物が検出されたと報道され、人々の目がオウムに向き始めていました。この頃の私はまだ地獄の恐怖から脱け出せない状態でした。
夢の中で、片足を切断して血だらけの女の人が、「あなたも尊師に帰依できるでしょう」と言って追いかけてきました。私は泣きながら逃げているところで目が覚めました。

 私は5回も脱走し、独房やコンテナに3か月に渡って監禁されました。地獄の恐怖だけでなくオウムに連れ戻されることも恐怖でした。私がコンテナに閉じ込められた時、真夏で内部は40度まで気温が上がり蒸し風呂のようでした。24時間手錠をされたままで眠ることも横になることも許されず、閉じ込められているという恐怖もあり、だんだん気が狂いそうになってくる。1か月経っても出られない、2か月経っても出られない、いつ出られるかわからない。何度も絶望的になって泣いた。この時、私の心を救ってくれたのは、コンテナの中で知り合った2人の友人でした。彼女たちにたくさん助けてもらった。そして、彼女たちと引き離されたとき、私の心は限界でした。脱走を決意した。私は真っ暗なやぶの中を走った。手や足はいばらの木で傷だらけになった。でも痛みは感じない。なぜなら地獄におちるという恐怖心で一杯だったから。

 2度目の手記は脱会して6カ月が過ぎようとしていた頃でした。地下鉄サリン事件、強制捜査、明らかになっていくさまざまな事件…辛い日々でした。悔やんでも仕方ないと思っても、後悔・罪悪感で胸が一杯でした。地下鉄サリン事件の日は、テレビを見ていて事件の一報が流れた瞬間、オウムだ!と思いショックでした。

 オウムの残忍な行為は悲しいけど事実です。そして私はそんな教団の一員だったと思うといてもたってもいられなくなります。でも、罪悪感で一杯の心の中でマインドコントロールはまだ残っていました。庭で草むしりをしようと思ったら、恐くって草がむしれない。オウムにいた頃、草木を傷つけたら成長天の神が怒ると聞いたからです。でも「オウムの教義は矛盾だらけだ。あんな残忍なことをする教祖が救世主であるはずがない。大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせて、目を閉じて思い切って草をむしった。恐怖はまだ残っている。むしった草を見たら、少しだけほっとした気持ちになりました。

 3度目の手記は脱会して1年が過ぎた頃に書きました。世間の話題の中からオウムの話題が少なくなり、証言予定の私を警備していた警察も周りからいなくなり、落ち着いた日々となりました。恐い夢もたまに見るだけとなりました。罪悪感によってただ落ち込むだけでなく、できることから始めて行こうと思えるようになりました。
ただ、オウムにいた頃の友だちはどうしているかが心配でした。脱会したか?それともまだサマナだろうか?真実を知ってほしいという思いを書いて「カナリヤの詩」に載せました。
そして今回、4度目の手記をこうして書いています。脱会して1年9ヵ月が過ぎました。仕事にも慣れ、精神的にも落ち着きました。今になって気が付くことがたくさんあります。
1年前どうしてもオウムから脱会させたい人がいました。オウムの言っている嘘はこんなにもあるんだよ、といろいろな記事を集め説得しようしました。教義の矛盾を話したり、情に訴えかけたり、いろいろやってみました。マインドコントロールについて本を読んだり、自分で体験しているにもかかわらず、焦りもあって強引に脱会へと導きました。

 そんな中で、彼から記憶が消されて覚えてないことが多いことを聞かされました。オウムが記憶を消去しようとニューナルコをしていたことは知っていました。でもまさか彼が、という思いがありました。この時は足元が崩れるような気持でした。私は彼との思い出が支えでした。いろいろなことがあったけど、思い出すのは何故か楽しい思い出が多かった。私が大切に思っていた家庭を失って、残ったのは思い出の中の家庭でした。でもそれも共有できなくなったと知った時、彼が遠くに感じました。彼の悲しみを考える余裕もなく、私の頭の中はパニックしていました。今は、記憶を失った本人が一番辛いとわかります。自分の知らない時間があることは恐怖です。私の想像以上に辛いことだと思います。思い出が消えても、彼は彼だと思うようになりました。

 でも、彼の心は今でも苦しんでいます。私では癒せなかった彼の心を、カナリヤの会の同じように記憶を失って苦しんでいる人が癒してくれました。オウムはいろいろな残忍な行為をしました。記憶を消すこともその一つです。先日、精神病院で2ヵ月ほど仕事をする機会がありました。その時、電気ショック療法を見ました。精神病院では治療として使います。薬物療法の効果のない患者さんで、死を強く望んだり、人を殺さなければという危険な思いが強い場合に、その思いを忘れさせてあげるために使ったりするとドクターから聞きました。オウムはこれを悪用しました。電気ショックをかけると一時的に痙攣が起こります。患者さんの姿と彼の姿がだぶりました。こんなに酷いことをする教団にいたのかと、自分が情けなくなりました。

今。
 私たちは、オウム犯罪者集団にいました。犠牲者・残された家族がいることも十分分かっています。私たち元信者に対して厳しい言葉があっても受けとめて生きていこうと思います。オウム信者・元信者のマインドコントロールがすべて解けた時、完全にこの世からオウムがつぶれると考えています。
暑い日が続いています。独房やコンテナに閉じこめられてから暑い日が苦手になりました。独房の中は異常に暑かった。両隣の独房の部屋に閉じこめられていた男の人は、夏だというのに電気ストーブをつけて閉じこめられていました。両隣の壁から熱気が溢れてきて独房全体が異常な暑さになっていました。

 天井にある小さな換気扇が回っている時だけ、ドアの下のわずかな隙間から風が入ってきました。顔を床にこすりつけ少しでも風を感じることがささやかな楽しみでした。一畳ほどの狭い独房にいると息ができないほどの不安に襲われました。24時間手錠をされていたので手の痛みと、手を自由に動かせないストレスも強かった。少しでも眠れると、その時だけは気が狂いそうなほどの不安を忘れられた。この時の夢はいつも親子3人でいる夢でした。目が覚めると、眠る前以上に気持ちが落ち込んでしまい、身の置き場がないような気持に途方に暮れた。目が覚めてからの落ち込みが嫌で眠りたくないという気持ちと、眠れば少しの間、不安から離れられるという気持ちがありました。

 脱会したばかりの頃、誰とも会いたくなかった。でもオウムと関係のない友だちが、私が出家中に1人暮らしの私の母を心配して何度も訪ねてきては、母を励ましてくれたそうです。誰にも会いたくないけれど、お礼を言うために連絡をとってみました。すると友だちは私のために泣いてくれました。私の周りにはオウムの一員であった私を優しく待っていてくれた友だちが何人もいることに気が付きました。私は人に恵まれているようです。大切にしていきたいと思います。
今、困っていることは、エレベーターや混んでいる電車に乗ると不安が出てきてしまうことです。暑い日はとくに息苦しくなって、独房やコンテナでのことが思い浮かんできます。でも頑張ります。             以 上

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2018/12/21

3つの手記 その1  カルト・宗教・犯罪

20181221
オウムをやめた私たち カナリヤの会編
―岩波書店 2000/5/26、がやたら入手しにくいみたいなので、まずはその手記中3つをアップしておきます。2018.8.25の日本脱カルト協会の公開講座「オウムのすべて」で紹介し、話した貰った3人の上記本の中に収録された手記です。


沢木晃 手記 君が消えた夏 1994
男性 20代、元準サマナ
1991年12月入信、95年5月出家、97年4月脱会
99年2月15日の手記


 僕自身が経験した、ある出来事について書きます。それは、キリストのイニシェーションの時の事故でおそらく亡くなった、友人S君のことである。では、僕の記憶をさかのぼらせてみよう。

1 入信 彼が入信したのは、93年の10月〜12月ぐらいだったかな?そのころといえば、麻原が“激命悪趣ポア”とかいって導きに力を注いでいた時期で、彼はその流れのなかMという人に導かれたらしい。
 もともと彼はチベットに興味があったらしく、入信前か入信してしばらくしてからか知らないが、一人でチベットを旅したそうだ。それに当時、NHKスペシャルで「チベット死者の書」が放送されて、オウムもそれを利用して信徒を増やそうとしてたので(レジメまで用意して)その流れの中で捕まったのかも?

2 変化 だが、入信して間もなく、麻原の「毒ガス攻撃されている、出家できるものは出家しなさい」という一連の説法の流れを受けて、準サマナとなる。この時も、親とオウムとの間で心が揺れる。「やめる!」、「やめない!」だのいろいろあったらしいが、結局準サマナとなり、支部に常駐することとなる。
 彼と親しくなったのはそれからで、道場行けば片隅でマハーヤーナ5回読みをやっていた彼の姿を思い出す。また当時、学生を導くということで、大学に「ジュピター」というダミーサークルをつくったことがあったが、僕と彼はサクラ役としてちょくちょく顔を出していた。

3 キリストのイニシエーション始まる 彼は94年4月以降も支部に常駐し、マハーヤーナ5回読みやビラ配り、勉強会の時のサマナの手伝いなどをしていた。その後キリストのイニシェーションが始まり、学生は任意の布施で受けられることになり、僕も受けられることになったが、一緒に行くメンバーとして、僕とS君、あとSさんという人と行くことになった。
 出発の数日前に、道場で一緒に時刻表で在来線の時間をチェツクしながら、
僕「あれって(キリストのイニシェーションこと)、自分のカルマがわかるらしいが、それで温熱やるらしい
けど、あれって危険だから尊師が勝手にやるのを禁止した行法でしょ?それをやるってことはそんなにすごいイニシェーションなの?僕家で練習してるよ」
S君「僕もサンガ(教団)の風呂で練習してるよ」
僕「その時、サットヴァレモンのホットを飲んでる?」
S君「いや、僕はただ単に熱い湯につかっているだけ」なんて会話をしたのを覚えている。
 ということで当日になり一緒に富士まで行く。電車に乗ると、S君は、支部の生活から一時的とはいえに解放されたという思いが出たのか、窓の外の都会の景色を見ながら「久しぶりの現世だな〜」なんて言っていた。また着く前に食事は済ませておくということで、その日は支部からの許可つきでコンビニで買ったパンを食べていた。車中では、このイニシェーションでは自分のカルマ、データが試されるという噂を聞いていたので、僕とS君は「データを入れ替えよう!」ということで、まるで試験前に最後の悪あがきをする学生のようになって教学していた。

4 上九一色村 イニシエーション、 そして別れ  その後(おそらく)第一上九に到着、バスが着いた時、サティアンの入口でサマナと地元住民とがなにやらモメていた。赤いランプが点滅しているのも見えたので警察も来ていたのかもしれない。今から考えると、94年7月といえば悪臭騒ぎがあってピリピリしていた時期だったので、それに関係したことだったかも。
 ウソ発見器、地獄のビデオ、ベルドーの導きとかはS君と別になってしまうが、最後の修行の時はみんな一緒だった。この時ケイマ正大師の指導の下、立位礼拝やヴァヤヴィヤをしたのだが、僕の右後方でダルドリーシッティを起こしてピョンピョン跳んでいたS君の姿を覚えている。
 そしてLSDを飲んでシールドに行く前にオムツをつけるとき、「これ、どうやってつけるんだろう?」といった会話をして、別々のシールドに別れたのが、S君との本当の別れになってしまう…。
 その後LSDのトリップはおわり、富士で温熱をするのだが、富士行のバスにS君の姿は見あたらない。バスで支部から一緒に来たもう一人の信徒Sさんと会い「どうだった?」なんて会話の後、
Sさん「あれ、S君は?」
僕「いや、知りません」
Sさん「来てないの?心配だね」
なんて話してたが、結局S君を乗せないままにバスは富士へ。そしてそのままイニシェーションはおわり、僕は帰る。

5 帰還 支部に帰り、8月になってもS君の姿は見かけないので(あれ、どうしたんだろう、帰ってないのかな?)と思う。支部のサマナですらS君のことは知らされていないらしく、逆に「○○君、S君知らない?一緒に行ったんでしょ?」とか聞かれ、
 僕「でも僕、温熱の時は別でしたから」
 サマナ「あら、そう、どうしたのかしら?」
なんていう会話があったくらいだから。
 今から考えれば、イニシェーションで事故とはいえ亡くなった彼のことを、教団が公にするはずがなく(なにしろ法律違反だから)極秘に処理されているのを(当時開発した焼却炉かな?)支部のサマナが知らなくて当然だが…。
 しかしS君にとって不幸だったのは、ヴェールカンダキャー師と違い、家出同然に支部に来た準サマナで、正式な出家はしていないのでサマナ番号はない、そして支部でも一部の人しか知らないということで教団が隠そうと思えば隠し通せることだった。実際、その後、支部では彼が消えたことに関して、「そのまま出家したらしい」「調子を崩してAHI(治療省)に行った」とかいう憶測だけが一人歩きをしてそのままだった。僕もあえて追求することはしなかった。そして94年は過ぎ、激動の95年を迎える。

6 TIME STOP  95年の激動のなか、僕自身が準サマナになり(ここから現在までの心のプロセスについてはおいおい書いていきたい)、S君のことは思考の中から消えていた。
 ただ脱会の前後、破防法適用うんぬんの時に、公安警察がたまたま家に来たので“利用出来るものは利用したれ”と思い「94年の夏にいなくなったS君について調べることはできます?」と聞いたら、「その後免許証の更新に来ていない」、「家族から捜索願が出されている」という情報を得る。
 僕は(そのまま出家したとしても免許証はオウムにおいてワークをする際、必要なものだから更新してないってことは、やっぱり死んでいるな)と思う。

7 TIME MOVE AGAIN そして98年4月に滝本さんと初めて会った時、ふとS君のことに触れると、滝本さんがS君の親から相談を受けていたので、イニシェーションの時の状況を話す。(この時はまるで取り調べで調書をとられる被疑者のようだったが)。

8 両親との対話  その後、滝本さんの紹介でS君の両親と会い、イニシェーションの時の状況を話す。いろんな話を総合すると、やはりS君は94年7月の時点で、イニシェーション中の事故で亡くなっているという結論に至る。戸籍上では、まだS君は生きていることになっているので、命日だけでもはっきりさせて墓を建てたいとのこと(しかしそこには、S君の遺骨すら入ることはない)。しかし4年間、行方も生死も分からない息子のことを思い、この日の僕の証言で絶望ともいえる現実をつきつけられたのに、笑顔で僕を見送ってくれた両親を思うと、胸が痛みます。さぞ辛い4年間だったと思います。
 そして先日、S君の父親が亡くなったという連絡を受けた。4年間、行方不明の息子のことを思いながら仕事などしたツケが体にはねかえったのか。ご冥福を祈ります。残された母親(息子はもう一人いるらしいが)のことを考えると、僕がお手伝いできることは何でもしようと思う。このように、テレビに映らない、新聞にも載らない、刑事事件にもできないオウムの悲劇、というのはあるのである。ホント僕がニューナルコにかけられなくてよかったよ。

9 女性サマナとの対話  ちなみに、最近この話題に触れたとき「あれって(イニシェーションのこと)やる前に、何が起きても尊師、教団の責任は問いませんっていう契約書をかいたでしょ。それに私は薬物の件で警察の取り調べを受けたけどシロだったわよ」と言って、キラめく笑顔で街中で『真理発信』を配ってた女性サマナの方、まあ僕がここまで書いたS君に関する一連の出来事も、ある信者の言う、「死ぬことに恐怖があるから、そういう風に大騒ぎをするわけですよね。死ぬことに対して。だから、死を知ればいいんじゃないでしょうか」ということになるのかな?(でも村井さんが死んだ時、大騒ぎしてたな、それに死が恐くないというなら上祐君も防弾チョッキ着ないと思うんだが…)。
 これまで書いてきたことは、別に電磁波攻撃で操られて書いたわけじゃないし、まして公安やフリーメーソンから給料をもらって書いたわけじゃないので、現役の人は、こんな法友がいたということだけは記憶にとどめておいて下さい。

10 最後に S君、「君がいなくなって5年目の夏を迎えようとしている。
オウムは相変わらず寄生虫のように活動しているよ。もし君が、あの時死なずにいたら、95年の激動をどのように見たんだろう?
 今の現役信者のように、「尊師には深い考えがある」とかいっての残っていたかな?
それとも自分の思い描いた修行、救済とは違うということで去ってたかな?
それも今となっては知る術がないが…。
今回、僕の記憶が薄れる前に、君のことを『カナリヤの詩』に書いたみたよ。いいよね?
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