2011/1/3

囚われ人  カルト・宗教・犯罪

門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

−上記は、一休さんの和歌、これを正月に詠むというのはすごいこと。年齢を数えで読む時代は正月に年を取るのだから、より実感があったことだろう。

で、「めでたくもあり、めでたくもなし」という所がいいなぁと思う。前の正月から数えて、何があってもなんとかまあ、また1年間は生きたということだから。「めでたくもあり」を忘れてはならないのだ、と。

これに反して、死の恐怖ばかりかきたてる麻原説法が下記

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煩悩にまみれて生きてきた前生の弟子たちよ

いよいよ君たちが目覚め、そして私の手伝いをするときがきた
君たちは死に際して決して後悔しないようにしなければならない
君たちがもし選択を誤れば、君たちがこの人間界へ生まれてきた意味を 完全になくしてしまうことになる
君たちは確かに今生、情報により、煩悩により、けがれた
しかし、君たちの本質はけがれるはずはない
なぜならば、君たちはわたしの前生の弟子であり
そして本質的には他の魂と違い 救済の手伝いをするために生まれてきたからである
わたしは、君たちがわたしの手となり、足となり、あるいは頭となり、
救済計画の手伝いをしてくれることを待っている
さあ、一緒に救済計画を行なおう
そして、悔いのない死を迎えようではないか

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これ、1995元旦や1995.3.22未明に、オウムラジオでやっていた。3.22未明は、上九周辺しか届かない電波だったけれど。

「死の軍勢」とかいう言い方をする歌もあったな。
それが人の勧誘や教団にしばりつける言葉になると思っているうちは、多分宗教的にもレベルか低いんだろう、と思う。

自分も、確かに少年の頃、死んだ後はどうなるのかと気になって眠れないことがあったなぁ。で、テレビコマーシャルでさえ言っているように、自分は宇宙・大自然の一部であり、あの星も自分なんだ、と実感を持っていれば、死の恐怖などなくなるもの。

死ぬときに痛かったり、意味なく長引くのは嫌。だから尊厳死協会に入っているけれど。そして、まだまだ死ぬわけにもいかないなぁ、と思うけれど、用意はそれなりに毎日している。

個体の死など、一休さんの言葉を待つまでもなく、まったくもって当たり前。
新実智光死刑囚は、2007年正月だったか、
「人は皆 時の定まぬ 死刑囚 会って別れて 夢と消えゆく」
なんて書いたとのこと。

一休さんの前記の歌も引用しつつ。なんか秀吉の「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢」」に似てるね。「人は皆 死刑囚」というのは麻原説法にもあった、これも死の恐怖をかき立てるための言い方。説法どおりに、本当の死刑囚になる必要はないのに。そして現世を幻でしかないとする感覚、信者のままだね。

新実には、まだ死刑囚云々と言っているのかい、といいたいな。
一休さんの和歌の「めでたくもあり」の重要さを知らないんだね、と。

麻原さんは、死の恐怖にさいなまれたままなのだろう、哀れだな。
後か先かわからないが、みんな死ぬから安心しなよ、行き先の心配なぞするなよ、と言いたいです。

そんな人や、未だ教団にいる方には伝えたい。
何をいつまでこだわっているのかい。

『人といふ人の心に 一人づつ囚人がいて うめくかなしさ』
(石川啄木)
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