2009/7/6

1Q84年−上・下  歴史・定義・知識人の責任

1Q84年−上・下

村上春樹さんの本は
うーん、エヴァンゲリオン世代とその直前の世代というのか、村上さんの本あたりを読んできた人の中からもオウムに入信・出家した人が少なくないので、読まなければいけないなぁと思ってきたが、どうにも興味を持てず、でした。

オウムがらみだけを読んできた。今は文庫版にもなっている下記。
・アンダーグラウンド−講談社文庫
・約束された場所で―underground 2 −文春文庫

今回、人から聞かれ、メディアからも問い合わせがあったりするので、読んだ。

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あの、忘れぬうちに書くと、村上さんは、読売新聞では6月上旬の取材で、
--オウム裁判の傍聴に10年以上通い、死刑囚になった元信者の心境を想像し続けた。それが作品の出発点になった

とあるのですが、村上さん傍聴に来ていたかなぁ、来たとしてもひどく少ないと思うんですが。生意気だが私の所に問合せは来ず、だからカナリヤの詩も送っていない(死刑囚の手記などもあるのですが)。村上さんは、「約束された場所で」の本で、ごくごく一部の元信者に会っただけと思うが。私、かなりいろいろな方面の学者・文学者らから問い合わせがあれば、カナリヤの詩を送り情報提供をしたのですが残念。江川さんを初め実によく動いて取材と対話を重ねてきた人らもいるが、村上さんは決してそうではなかったと思う。裁判記録もしっかり読んでないのではないか、と気になる。

つまり、実に限られた情報でのみ、そして自分のストーリーにし易い形で、自分の従前からの土俵の上だけで考えたのではないかなぁ。

>オウム事件につき、村上氏は、「現代社会における『倫理』とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた」

とする。うん、それは結果的には同意。麻原さんがそれを意図していたのではなくてもね。であるとき、尚更にオウム事件の「事実は何だったか」をよく調べてから物語を構築しないと、砂上の楼閣になったしまうだろうに、と思う。

>「作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている」
うん、それが文学に期待するところなのです。

そのあたりは下記ブログで言われていることに、まあ同意です。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2009/06/1q84-book1-book.html
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文学は社会が隠蔽すべき猥雑で危険な思想をあたかもそうではないかのように見せかけつつ、公然に晒す営みである。日本の、物語の出で来初めの祖なる「竹取物語」は天皇とその体制を愚弄する笑話であった。日本の歴史を俯瞰して最高の文学であるとされる「源氏物語」は天皇の愛人を近親相姦で孕ませ、それで足りず少女を和姦に見立てて姦通する物語である。
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戦争や権力からひどく抑圧されていたり、貧困によって「生きる意味」を絶望的に捉える必要のないとき、そんな必要性があまりなく、従って素敵な文学は生まれにくいものである、ということを付言はしますが。

だがなぁ、弱ったなぁと。

まして、村上さんは、オウム被害救済新法の成立などにも、世論喚起のことなどで支援してくれたし、何より被害者の声・事件の重さ現実感を掲載した「アンダー・グラウンド」は村上さんの本でなければあそこまで売れなかったから、実にありがたいのでした。

たが、この本は。うーん。

島田裕己さんも書いているが
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http://hitorigurashi.cocolog-nifty.com/kyodo/2009/06/6231999-1923.html

>この作品、相当に問題を抱えていることも事実だ。

>FAXは、今でも我が家のどこかにあると思うが、研究会に対して興味があるが、自分は小説家として、この問題については一人で考えてみたい--

>オウムの問題は、一人で考えていると、必ず袋小路に陥る。それを避けるためには、対話を続けるしかない。対話を続けないと、ある意味、オウムの信者たちが陥っていったのと同じ罠にはまりこんでしまう。

>今回の小説は、村上氏がその罠にすっぽりとはまりこんでしまったことを証明しているのではないだろうか。

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なんですよ。

たしかに小説・物語だから、現実の事件に縛られることはない。先に書いたとおりの「文学」の役目もあろう。

オウムとヤマギシを合体させたような団体を設定したのは、破壊願望に色どられた教祖と、片や生産から離れたことのない団体とだから、無理筋だよ、と思うが、それは自由というもの。
自由に描き、その上で「原理主義やある種の神話性に対抗する物語」というものを作ってほしいところです。

しかし、実際の事件に影響された作品を作る時には、たとえばカルト問題であれば「社会、信者、教祖」の心の本質みたいの所は、実際の所からあまりに離れてしまうことはできない。
そうなれば、物語自体が、全くの砂上の楼閣となり、知る人に対しては説得力がなく、知らないことに対してはひどい誤解を招いてしまうから。

下巻の教祖の所、とても大切なはず。

だがなぁ、麻原さんは決してあんなまともに「宗教」というか、異なるモノと相対していなかった。何より命を惜しがる人です、普通以上に。元信者さんにとっても、ブンガクシャさんらにとっても、とても残念なことだが、カルト団体の指導者ってのは、宗教とか主義主張は、自己の煩悩というか欲望を満足させるための手段でしかない。

村上さんは、麻原さんに食われちゃったんかな、と思う。考えているうちに、等身大ではなくなってしまったのかな、と感じた。読者の一部であっても他の人が、カルト教祖ってやはり何か深いところがあると思ってしまう影響があるのでは、と心配。村上さんは、麻原さんがキューと小さくなって、自分の口で食べてしまうイメージトレーニングとか、しなかったのかな。

文学者とか芸術家って、そんな人が少なくないように思います。
信者さんにも、芸術家肌、文学者肌の人がかなり入っていたし。

ちなみに、吉本隆明も同じだった。彼は、麻原は偉大な宗教家かもしれない、法廷で事件はすべて認める、現代社会に対する正しい行為なんだ、とでも言ったらどうする、とか言った。麻原の本質を知っていれば、そんな事態があり得ないことは分かるはずだったのだが。洞察力がない知識人だということ。「吉本は頭がスポンジになったのか」と批判した埴谷雄高とはあまりに異なる。

なお、ちなみに、
・麻原さんの方は、自分の娘やそんなにまで未成熟の女の子とセックスしたがるような傾向はありませんでした。これは誤解を招くといけないので一言。
・置時計の空中浮揚あたりは、そう見えさせられた、ということでまあ良いけれど(苫米地氏ならもっと上手かもしれない)。

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なお、大江健三郎の「宙返り」ほどの駄作ではないです。読める物語です。

大江さんのは、なんと今、文庫になっている− 講談社文庫。ノーベル賞作家だとは言え、出版社ももう少し考えたら、と思う。

教祖は既に「宙返り」してしまっているのであって、残された信者も生き延びている教祖も、それぞれが自分で落とし前をつけねばならないというように小説。作者いわく、「ひとり少年時に聞いた「神」の声を追いもとめる若者も、死の前に生きなおすことを企てる初老の男も、自分だと思う」、とのこと。

だがなぁ、思想的に「自分で落とし前をつけようとする教祖」なんてカルト団体ではあり得ないんです。カルト教祖というものを何も分かっていない大江さん、だな。オウムに限らず、ライフスペース、法の華などいくらでも出てくる。最後に自爆したりする教祖とても落とし前が付けられなくそうなっていくものです。やたらエログロにのはお愛嬌だとしても。

大江さんの「セブンティーン」などは良かったのだが。
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で、村上さんのは、大江さんの駄作「宙返り」とは違って、面白い本でもあるので、社会への影響が、実に心配です。
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