2008/4/19

人は時に人を殺して良い  憲法・社会・官僚・人権

うーん、死刑廃止論議を見ていて、時に
1−人は、決して人を殺してはいけないから(宗教者の言い方だったり、「人権派」の言い方だったりする)
2−国家にあっても、人を殺してはいけないから(亀井議員の言い方)
なんていうことをいう人がいて、唖然とします。

私は、死刑廃止論の理由として、
1−冤罪の危険性とか、
2−死刑執行人の苦悩、というところを言うのはよく分かるんです。
ただ、それでも
1−冤罪の危険性がないというほかない事件もある。
2−誰かが執行しなければならないものであって崇高な職務である。苦悩を少しでも減少させるべく、それを環境、社会認識、哲学、イデオロギーにおいて設定すべき
ということから、私は死刑存置論なんです。

>1−人は、決して人を殺してはいけない
というの間違いですよ、明らかに。議論が乱雑に過ぎる。

自分や他の人を今、殺そうとする人がいればその人を正当防衛により殺しても違法ではないし、船が沈没して1枚の板を2人が争うとき相手を蹴飛ばして海に沈めても(カルネアデスの船板)違法ではない。まあどちらの場合も従容として自分の方が死ぬ人もいるだろうし、映画タイタニックのデカプリオみたいなことはできると思うが、誰も、正当防衛での殺人さえしない聖人?になれ、と人にいう権利iもない。

私は戦争は避けたいけれども、真実の自衛戦争であれば、攻撃してくる人を殺しますです。自衛戦争も認めます。真実の自衛戦争かどうかが問題ですが。モーパッサンの短編集の中の「脂肪の塊」というのが哀しいものなのですが私は好きだなぁ。

つまり「人は時に人を殺して良い」んです。

>2−国家にあっても、人を殺してはいけないから
亀井議員がこんな感じて言っているんだけれど、そうすると亀井議員は自衛戦争も否定的にとららえるのかなぁ、そうは言っていないと思うので不思議。

国家が殺さなくて誰が殺すんだろうか、と思う。

死刑廃止の流れは、キリスト教における「最後の審判」が深く影響しているように思う。人が処罰しなくても、被告人が死亡した後のいつかの「最後の審判」において神が審判してくださる、という感覚、ね。まあ仏教でもあらゆる人に対する「慈悲」概念が影響しているのかな。
だが、そんな宗教概念みたいなものとか、決め付けに同調される謂れはない。

昔のように仇討ちを合法化したいのだろうかしら。
仇討ちは武士階級にしか許されなかったが、町人や農民が仇討ちで殺したときは、十分に情状酌量されていたのだろう、と思います。で
仇討ち制度は、たまたまその立場になった被害者武士の子どもらに非常な負担をかけたものでしょうね。そしてもちろん、仇討ち制度などあれば、法秩序は混乱するばかりでしょう。
死刑を含め刑罰は、個人や地域、部族、お家というものから刑罰権を国家が奪った代わりに、国家においてやってくれなければ困るものです。「日本」がいつまで国家かは分からないが、そのような「国家」というもの自体は死滅しようがない。

最後に、
1−私の死刑存置論の積極的な根拠は
「生物にとって自分の命は通例最も大切なもの。その大切なものをもって贖うのが最も重い刑罰であり、もっとも重い刑罰を廃止することは間違っている。そして刑罰の本質は応報であって、人間が決して神ではない以上、死刑制度を存続させるべき」というところです。
2−その上で、具体的には被告人により死刑は不相当・不適切というべきものがあり、その一つとしてオウム事件における教祖以外の12人がある、と考えています。
・マインド・コントロールの激しさ、
・1994年5月からの事件は明らかにイニシエーションとして使われた薬物使用影響が現れていること、
・12人は、個人それぞれは何らの犯罪傾向がないものであったこと。
によります。

参考までに、私が麻原法廷で述べたことなど下記にあります。本人は右2メートルほどに、二女や三女が傍聴席にいるところで述べてきました。同被告の死刑執行には立ち会いたいです。
資料 30 2003.3.27−「麻原さん」法廷で最後の意見陳述−東京地裁にて
資料 25の2 − 資料25のより正確なもの
資料 25 2000.5.12−麻原さん法廷での、最後の陳述予定のもの
資料 24 2000.3.9−麻原さん法廷での滝本陳述−予定していたもの
http://www.cnet-sc.ne.jp/canarium/shiryou24-.htm
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