2012/7/16

「教育長」と教育委員会  憲法・社会・官僚・人権

「教育長」と教育委員会

 大津のいじめ死亡事件(自殺と多くは報道されている)にかんして、諸々の情報が出ている。私は、これまでどうも書く気がしなかったです。

というのは
1−ほとんどの人が同じようなことを感じていようから、書く必要もないとも思い。

2−自分もいじめられてきた方でして、見聞きするのが、実は未だに辛いのでして。(いじめられている人、いた人は、詳細に見聞きする気が起きないと思う。トラウマだよね。現在進行形の人には、@「いじめられている」と親などに言う勇気を持とう、今の時代それは恰好いいんだよ。A学校なんで行かなくてもいいんだよ、B決して永遠には続かないのさぁ。後で見返してやればいいのさぁ。と伝えたい。)

で、各人の見解形成の補助として、標題のことを書きます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
に、教育委員会のこと、良く整理されています。

 今回の特徴は、あまりに酷過ぎる内容−報道内容通りであれば刑事処罰も十分あり得る−であることと同時に、当該中学校も市教育委員会の隠ぺい作業が実に酷いものだ、と言う点です。←市長がこの1月に変わらなかったら、未だ明らかになっていなかったのかも。
 
 その背景の1つが「教育ムラ」問題なのだろう、と。「かばい合い」です。今回はその他の要因もありそうだが、日本全国共通の問題であり、これ無くしても大津のこの問題も起きなかっただろうことは、「教育ムラ」のこと。あの大津市教育委員会の、余りに典型的な「教育長」の顔と言動に表象される。

 取材を受けている責任者側が「教育長」であって、教育委員会「委員長」ではないことは、本来はおかしなことです。ですが、確かにそれが実体。「委員長」は、まずは何も知らなかったんだろうから。

 教育委員会委員は、現在は首長が議会の承認を得て5人ぐらい決めているのではないかな。地元の学者やまあ有力者の人とか。非常勤であり、年数回、形上の会議をするだけ、と言う実態です。互選という形で「教育委員会委員長」とかを決める。

 一方、「教育部局」は「市長部局」とは別であり、教師の給料が市からではなく都道府県から出ることで分かるように、予算も人事もかなり独立してしまっている。

 で、委員5人の中には、必ず「教育長」兼任がいる。元教師かつ教育部局を長く経験した「委員」です。いわば「アガリ」のポストです。「委員長」との兼任はない。

 この人が、各学校を支配している教育部局の責任者であり、長くその自治体の先生やら官僚をしてきた人であり、あらゆる情報を握っている。すなわち「教育ムラ」の人。

そして
1−市長などは、多くしばしば変わるし、そうでなくとも教育畑には無知な人も少なくない
2−その他の教育委員会委員は、「委員長」を含めて素人ばかり。
3−教育委員会委員はしばしば変わる。
4−規則上も、教育委員会規則は委員会が作れる筈のもの、改正できる筈のものであっても、とうに「教育長」に日常のこととして委任する形というのがほとんどなってしまっており、いわば白紙委任の規則になっている。交替した委員の過半数が、仮りに規則自体を改正しなければならないと考えても、激しい抵抗にあい時間切れとなろうと。
5−そもそもそんな人が「委員」にならないように、教育部局は市長あてに慎重に推薦すべき人をもっていく、と。

その結果、
・教育委員会はいわば「お飾り」「教育長のしていることに権威を与えているだけ」ということになる。
・「教育長」とかしている人の多くは「教育委員会」なぞなくて良いと感じているのだろう。あるいは「形上は責任者でないままに権力を持てる自分の立場」が便利だと思っているかも。

上記の問題点から
A−一つの方向性は、教育委員会なんて無くしてしまって、むしろ首長が「教育長」に直接影響を与えることができるようにする方向性のようであり
B−一方で、戦後しばらくの間のように、教育委員会委員も、市民の中から公選で決めていくという方向性がある。

 そしてまた、文部科学省は、教育行政を、教科書の選定一つからして、上から支配したがるものであり、AもBも嫌なのではないかなあ、「お飾りの教育委員会」のままにしておきたいのだろう、と思う。


私は、Bの方向性が正しいと思っています。

戦後、類似の制度として「農業委員」の制度があり、今も公選で決まっています。農業資格者のみの間でだけですが、各市町村で、選ばれています。多くは名誉職化し、候補者は地域代表みたいな定数通りだが、時に村内で調整しあうこととなもなる。バランス感覚をあまりに失しているから「あの人はまずいよ」というような調整があることも聞きます。農地の宅地転用の許可その他について、実際の議論が行われることもある。

「教育」のこととなれば、「誰でも専門家」とも言えるのです。同時に、「裁判員制度」がむしろ「専門家」を一部では信頼しきるべきではない、市民感覚を取り入れるべし、としてこの所で成立したことからも分かるように、「そればかりしてきた専門家」にだけ任せている事態を変えなければならないのではないか、と思う。
 
 一件素人の人に必要なのは、自らの体験と感覚のみに頼らないようにすべく、数か月間は、やたら各地を見学し広く勉強してもらうなどすればよいと。

 教育委員の公選制が崩壊してきた背景には、日本における左右の対立に大きかったこと、文部省・日教組の対立が激しかったこと、があろうと思う。
 しかし、今やそれは、言うほどの対立でなくなってきたのであり、「教育ムラ」の問題自体を、市民代表の声を制度的に入れていくことによって、打破しなければならないのではないか、と思う。
 時に自治体によっては、意見の大きな対立があっても、トラブルではなく意見調整により解決していく委員会を作っていけるのではないか、と思う(宗教国家である米国のように「進化論を教えるな」なぞとする教育委員会が出てくるとは思えない)。
 すなわち、日本の各市民は、この点につき相当に成熟してきたと。


Aの方向性は、首長が変われば、ガラッとまた変わってしまう危険性をもち、不安定に過ぎる。また首長を選ぶとき、その教育絡みの意見によって投票するということはまずなく、市民の教育に関する意思が反映した市長とは言い得ない。

教育関係への市民の意見は、教育委員の選任においてこそ直接集約していけるのであり、日常的に「教育」「学校」への市民の関心と関与を維持していけると。
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