2006/5/31

明日鮎解禁  その他

 俗に「キャッチ&リリース」と言って、魚を釣り上げてそれをすぐ放してしまう釣り人の人がいる。彼らは純粋に釣りと言う行為をスポーツというかレジャーとして楽しんでいるわけだが、僕は断然「キャッチ&イート」派なのだ。釣った魚は端から食べてしまうのだ。だから食べられる以上には釣らない。たまに燻製を作るために少し多めに釣ることもあるが、それでも大きなクーラーボックス一杯になるまで釣ったりはしない。だいたい大きなクーラーを持って歩くのが面倒だし、それほど魚ばかりを食い続けるのも少々苦痛なのだ。まあ、旨い肴(この場合は肴が魚なのだ)で旨い酒とばかりに気がはやるので、できればさばきやすい魚がいい。理想を言えば切り身で泳いでくれれば大変うれしい。まあ、それは無理だけど。
 そんなわけで、いよいよ明日は鮎解禁日!今夜はうれしくて寝られない人も多いのでは無かろうか

 もう一つ「衣替え」も明日である。当日の気温に一切関係なくいきなり冬服から夏服になるわけだ。この杓子定規な規則はもう少し融通が利かないかと思う。日本は南北東西に細長い、単純に6月1日と言ったって、北海道の北の端と沖縄ではだいぶ温度が違うだろうに。あるいは地方地方で多少日取りが変わるのだろうか?因みに僕のガールフレンドも明日から真っ白な夏セーラー服に変わるのだ。
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2006/5/30

もうすぐ鮎解禁2  その他

 僕はどちらかというと鮎は好きではない。魚なのに青臭いのがどことなくなじめない。で、圧倒的に岩魚の方が好きだ。岩魚は雑食で川の中の虫やら川の外の虫やら、両生類(サンショウウオなど)も食べてしまう悪食だ。だから釣り上げた岩魚は腹を割いてわたを取る。鮎みたいにわたごと食べたりすると、そりゃあもう大変なことになるのだ。

 最近は釣りをしないが、以前は渓流を釣り竿片手にさかのぼって岩魚釣りをした。こいつは水温が低い清流にしか住まないから、蛍と同じで川が護岸されて整備されてしまうと姿を消す。なるべく人が入らないような山奥を選んで渓流を上る。この渓流歩きがまた楽しい。途中で見つけた山菜なども摘んで、豪華な夕餉を思いながら釣りをするわけだ。

 天龍川も、その本流はもちろん鮎釣りが出来るが、流れ込む支流・・松川や与太切川や太田切川など釣りガイドに紹介されている。が、なぜか田切駅近傍の中田切川は紹介されていない。何故だろうと、地図を見ながら考えた。そこで僕は発見したのだ。上流に養命酒の駒ヶ根工場がある!きっと魚がもの凄く健康で針などに掛からないのだ。

 実際はどうなのだろう?地元の人に聞いたら、飯田線の橋の上流で鰍が捕れるそうだ。
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2006/5/29

もうすぐ鮎解禁  その他

 このシリーズ今夜の分も1度は書いてみたのだが、読み返すと実につまらない。書いているのも少々苦痛だ。書いてる本人がつまらないのだから読んでる方はもっとつまらないだろう。だからやめる。

 もうすぐ5月が終わって6月になる。6月1日は鮎釣りの解禁日だ。
多くの川で鮎釣りが始まる。天龍川でも鮎釣りは出来る。春先に地元の漁協が鮎の稚魚を放流する。それが川の石についた苔を食べて成長し、釣り人の人に目出度く釣られてしまうわけだ。もちろん放流された養殖物だけでなくごく少数だが天然ものもいる。だが、天龍川では近年この天然物が極めて減少傾向にあるという。一つにはダムのせいで、海からの遡上が出来なくなったのと、砂で川の流れがよどんで餌の苔がはえなくなったため。もう一つは「う」による食害である。「う」は長良川の鵜飼いで有名なあのカラスに似た黒い鳥だ。近年天竜川上流域まで、川鵜による食害が深刻で、鮎の稚魚などが根こそぎ食べられてしまうのだという。元々は海に近い下流部に群れていたものが、年を追うごとにだんだん上流まで進出したのだそうだ。
 そう言えば伊那北あたりの天龍川の河原でうらしき黒い鳥を見た気がする。いろいろと決まりがあるらしく単純に駆除することも出来ないようで、今のところ有効な対策は取られていない。

 鮎は清流の川底の石にはえる苔を食べる「草食魚」だ、虫やトカゲやとにかく何でも食べる岩魚とはその点が異なる。草食魚故にはらわたを出さずにそのまま串に刺して丸焼きにして食べる。川魚の中では一番好まれているのでは無かろうか。
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2006/5/28

調整力の時代なのだ2  その他

 近年人間関係の問題処理が出来ない大人が増えているように思う。
仲が良いときは極めて親密なのに、ひとたび何か小さな諍いがあると、それを乗り越えて回復する努力をしない。ただ悪態をついて分かれていくだけだ。
 僕はそんなことで、友人関係や家族関係、それに職場での関係を良好に維持できるのか人事ながら心配になる。
 「嫌な奴には会わない」では、社会生活が出来ないだろうに。

 では何が必要なのかと言えば、それが「調整力」なのだ。
具体的には、
1.自分の意見を言うべき時にはっきり言う能力。
2.相手の意見を聞く能力。
3.それらの相違点・問題点を洗い出す能力。
4.相手に譲歩を要求する能力。
5.自分の妥協点を見極め、相手に譲歩する能力。
6.それらを時間的に管理する能力。
と展開できるだろうか?なにしろ論文を書いているわけではないから用語の選択や内容の吟味は不十分であるので予めお詫びしておく。

 僕の周りにも過去に何人か、調整力のない人物がいた。彼らに共通するのは、まず第1項目の「言うべきことを言うべきときに言う」能力の欠如だった。
 よく言えば大変協調性がある。それはそうだ、話し合いの席など、意見を言うべき席で何一つ反対意見(又は意見そのものを)を言わないから、会議の進行を妨害しない好人物だ。この会議という表現は、単純に「何処に遊びに行くか」「何をして遊ぶか」等という友人間でありふれた話し合いと理解して欲しい。いわゆるイエスマンというタイプだが、問題は心底賛成しているのではなく、実際には自分の反対意見をしっかり腹の底で持っていることだ。だから、その場では円満を演出しながら、不満を腹に抱えて悶々としている。その噴出先が、大概の場合「陰口」である。今ならさしずめ掲示板であろう。そう言った場所で対象人物不在を確認して悪態をつく。しかも自分は徹底した被害者を演じるから極めてたちが悪い・・と思っていた。だがそれは違った。彼らはそこまでは狡猾でも卑屈でもない。ただ自分自身を正しく分析する能力も欠如しているのだ。だからその思考回路で極めて正しく「問題は100%相手側にある」と結論を出す。

 まずこの部分をクリアできなければ、相手との交渉そのものが成立しない。それでは調整も何もあったものではない。
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2006/5/28

調整力の時代なのだ  その他

 先週は朝の5時頃から動き出して夜まで野外にいた。前半は強風、後半は雨に祟られてかなり消耗した。結構天候は悪かったのに日差しは強くて、首から上だけ真っ黒に日焼けした。まるで南の島にバカンスに行ったかのような状態だ。

 さて、特に最近仕事をしていて思うというか、感じる事がある。
人間の、特に大人にとって重要なのは、学力ではなく「調整力」なのだと。「なんじゃそりゃ?」と思う人も多かろう。なにせ適当に表現する単語が見あたらないので仮に「調整力」と表現しようと思う。
 つまり、現在は「ペーパー試験の成績がよい者=優秀な人材」と単純に評価する傾向が著しく強い。果たしてそれは正しいだろうか?と言う疑問である。
 この評価は、単純に記憶力があるのと、過去の実績から試験に出やすいところを選択し集中して覚えるテクニックを知っている、あるいは教えられているだけのことであろう。その結果、想像力とか発想力とか判定しにくい部分を評価することなく、「記憶力(とそのテクニック)=試験の成績=人物の優劣」といった、実に安直な評価基準が成立している。

 では、ペーパー試験の成績さえ良ければ、社会で仕事が出来るのか?それが「否」であることは、全うに仕事している大人なら実感として理解できると思う。

 最近の重大少年(馬鹿な話だが「少年」は年齢を特定する単語で、性別を限定しない、特に男女に拘って表記するときは「少年男子・少年女子」と書く)犯罪の多くがこの、試験の成績が良く、過去に目立った不良行動をおこした事がない、教師が「優秀な生徒」と評価していた児童によって起こされていることに注目したい。彼(彼女)らは確かに試験の結果は良かったろう、では優秀な人材だったろうか?何が足りなかったのか、あるいは欠如していたのか?教師は何故重大な問題が起きるまで、問題を排除出来なかったのか。

 それは評価の仕方が間違っているからだ。
 
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