2010/8/26  18:48

山陰を走る 2  1996〜97原付日本一周後半編

1997年6月1〜3日

前回書いた日記とは多少前後しているが、日記を書いたページそのままに進めて行こうと思う。

6月1日
毘沙ノ鼻は本州最西端の地らしいが、行って見たらゴミ捨て場で、冗談じゃねえやとサッサと引き上げ、前に進んだ。

山陰は生まれて初めてだ。
ワクワクする。

梅雨も間近にせまっているので、とにかく前に進みたい。

神奈川生まれの自分にとっては、山陰はマイナーな存在に思われた。
実際走ってみると、実はのどかな風景の続く走りやすい所なのだと分かった。
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信号はほとんどが点滅で、数も少ない。
傍らに建っている学校の校舎は木造だったりする。
そして瓦屋根が目を引く。

たいていの家には、シャチホコのような飾りの瓦がある。
左を見ればそこは日本海。
なかなかきれいな砂浜もある。

今日は島根の中須キャンプ場に入った。
どうやらここも無料らしい。

この前に田万川温泉に入ったのだが、ここの隣のキャンプ場も無料で、整備も良くて、どうしようかと思っていたのだが、ファミリーキャンプでうるさかったので、ここに来た次第。

田万川温泉は、最近建物が出来たらしく、とてもきれいだった。
入湯料は400円だが、タオル代込み、石鹸、シャンプーもある。

この日の夕食は豚バラ肉丼と、九州限定のとんこつラーメン。



6月2日
雨が早朝に降った。
今日は移動は休みにした。
しかし、昼頃から晴れ間がのぞき、どうしようかと思ったが、面倒くさくもあったから、そのまま動かず。
沖縄の西表島で集めた星野砂の選別と、彫刻に没頭した。

※彫刻についての記載が残っていたのだが、どんな物を作ったのかは失念。
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2010/8/25  12:19


1997年6月3日

寄るつもりはなかったのに、ハンドルがいつの間にかここに・・・。

最近このパターンが多い。
でも、来て良かった。

津温泉(つのゆおんせん)、ちょっとした温泉街になっていて、港の辺りをプラーっとしていたら、何だかセーラー服だの、普段着だのととにかく若い子達がイーゼルを立てて、油彩などをやっている景色があちこちで見られた。

波止場の辺りで、バイクを止めてボーっとしていたら、おまわりさんが来て、藤乃湯の事を教えてくれた。
ここは実にのどかな温泉街だ。
藤乃湯は160円。(※1997年当時)
ちょっとしょっぱい、温泉だ。

明治6年の地震で温泉が出たという所で、湯船の温泉の湯が出る所がナマズの形をしていて、ここは別名「鯰の湯」とも言うらしい。

13:50
出雲大社に着く。
九州を走っているときに、妹尾河童さんの本に出ていたのを思い出し、読んでいたら、ここが縁結びの神様としても有名だったんだなあとと言うのを知った。

社の境内に入り、良縁に恵まれるように祈った。
50円のおみくじには「末吉」と出た。
全体の運勢を見てみたが、決して悪くは無かった。
ただ、争い事は貧乏を呼ぶらしいので、柔和に対処せよとあった。
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18:20
境港新屋町の砂浜にてテントを張る。
ここら辺は無料のキャンプ場だったはず・・・・
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この日の走行距離225.6km
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2010/1/21  22:08

九州を離れる  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月31日

今日九州を離れる。
16:00出港。

フェリー「ふく彦」は、一応船首などの区別はあるようだが、一見前後がどっちか分からない前後対称になっている不思議な格好をした船だ。

運賃は、原付+人で250円。
関門トンネルより値段は張ってしまうが、気は楽だ。
いきなりフェリーの事を書いてしまったが、話は少し遡る。

ここ唐津の虹の松原は、その名の通り、松林の続く道である。
天気が良いと言うこともあって、実に気持ちの良い通りであった。
今日中に九州を出て、本州に入りたいと言うのがあったが、その割には出るのが遅かった。

とにかく走った。
見たいところはいくらでもあるのだが。
九州ラーメンでも食べたかったがそれもやめた。
そのくせ、ジョイフルなんてファミレスで昼食取っているのだから自分の気持ちもいい加減なものだ。

いつもそうなのだが、午後になると何だかイライラしてしまう。
尻も痛い。
体も疲れてくる。
ろくに休みもとらずに走りっぱなしにしてしまうのがいけないのだろう。
僕はどうしていつも突っ走ってしまうのかな?

我ら波照間キビ刈り隊のもんぺ姫、AYさんの事を思ったりもした。
自分に都合の良いことばかりイメージしてしまって、片思いかもしれないのに。
左胸のポケットにはAYさんが作ってくれたテルテル坊主が入っている。

15:30フェリー乗り場に着いた。

いよいよ九州ともお別れだ。
でも近いうちにまた来るような気もするし、これからもちょくちょく来ようと思っている。
九州、良い所だ。

フェリーはわずか13分。
あっという間に着いてしまった。
16:13。日が暮れないうちに早いとこテント張れる所見つけたかったし、風呂に入りたかった。
4日入らないとつらい。

本州最西端の(日記空欄)という所に広い空き地があり、とても良いテント場になりそうだったので、ここに張ろう。

その前に風呂だ。
ちょっと遠いが川棚温泉まで行った。
そして戻ってきて、ここに張った。
波の音が聞こえ、夕陽が美しかった。
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明るいうちにズボンの両膝に開いてしまった穴を繕った。
ヘタクソな裁縫だが。
4日振りの風呂は実に気持ち良かった。
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2010/1/19  23:17

束の間の出会い  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月30日

冷水岳の近くの坂道の空き地にテントを張って飯を炊き、そしてすぐに眠ってしまった。

朝、起きて、道沿いに咲いているアジサイがきれいだなあと思いながら見ていた。
テントの結露がすごい。
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ここはちょっと蚊が多い。
松林は蚊が少ないが、杉林はブンブン飛んでいる。

家に帰るのもあと数週間だろう。
梅雨になる前にとにかく九州は出たいので、かなりの急ぎ足で走ってきてきたが、後悔はしていない。
それよりベンリイ号が心配だ。
3本もスポークが折れた状態で走り続けているので、気が気でない。
エンジン・ミッションのメカノイズも少しザラついてきたような気がする。

のどかな田舎道を走っている時だった。
家の軒下にチョコンと座っているおばあちゃんが、ニコッと笑って頭をコクッとしてあいさつしてくれた。
本当に嬉しい。

ほんの一瞬のすれ違いにも出会いはあるのだ。
テントを片付けていた時にも、通りがかりのおじいさんが、「おはようございます」とあいさつしてくれて、泣きたくなるほど嬉しかった。

しかし、都会に近づくにつれて、そういった温かい一瞬の出会いすらなくなってくると寂しいものだ。

なぜ?どうして話せなくなるの?
素直になれた沖縄が懐かしく思われた。
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2010/1/10  11:28

四次元パーラー「あんでるせん」その3  1996〜97原付日本一周後半編

手品なのか、本当の超能力なのか、今になると解らない物もいくつかあったが、どう考えても超能力なのかなと感じる「奇跡」もあった。

これは自分がどう第三者に伝えようとも、あまり意味の無い事なのかもしれない。
目の前で起きた事実をただ、自分がどう受け取ったかで良いのかなと思っている。

ここでは、ただ単に見たことを書きとめておくに留める。

・・・さて前回の続き。
どこから来たのか知らないが、この「不思議を」見に来た人はざっと20名以上。
同じような目的で来た人達だから、もっとフレンドリーかなと思ったのだが、意外と閉鎖的で、客層と言うか雰囲気はあまり良くなかった。
・・・いやこれは自分がその時そう感じていただけなのかも知れないが。

マスターはとても良い人で、時々ジョークを飛ばしてギャラリーを沸かせる一方で、世の中の事物の確信に触れるような発言もしたりする。
単なる不思議な人ではなく、メッセンジャーなのかなとも感じた。

ショータイムは13:30〜16:00まで。
自分達が店に入ったのが10:40だったから、えらく長居している事になる。
中には待ちきれずにショーが始まる前に途中で引き上げた人もいた。

さて、ショーの続き。
アナログ時計の針を手に載せただけでリュウズを使わずに止めたり、長・短針をグルグル回して見せたり。
これは、時計のムーブメントをマスターのパワーで無理やり動かしているのだそうで、機械が壊れる事もあるとか。

マスターは右脳と左脳のバランスの事について言及する。
こういった事は主に右脳による「イメージすること」が大切になるらしい。
左脳はどうしても理屈になってしまうから、こういう事をやるには理論的思考は邪魔になるらしい。

スプーン曲げなど、もうごく当たり前の事だった。
スプーンをフォークに変える事もやった。
スプーンの頭をグッと握ったら、(どっちの手だったかは失念)腕の関節辺りからフラッシュのような閃光がパッと出た。
マスターが握った手を開くと、グニャグニャのフォークになっていた。

100円ライターを、まるで柔らかい飴でも曲げるかのようにグニャリと曲げてしまう。

ギャラリーの中の何人かの、(互いに初対面のはず)名前を当てる。

予知能力で、その日の朝にマスターが何かメモを書いているらしい。
ギャラリーの誰かを指名して白紙を渡し、その場でメモや絵をを書いてもらう。

マスターが朝に書いたメモをカウンターの隅に置いてある財布から取り出し、今指名した人に書いてもらったメモと照合する。
マスターのメモには、書いた人の名前と車の絵が。
指名された人のメモの車の絵と見事合っている。
しかもその人の名前はマスターの書いたメモの名前の人だった。

さすがにこの時は狭い室内のギャラリーの皆がどよめいた。


ESPカードやトランプを使った絵当てや数字当てもあった。
全て正解。間違いゼロ。

また念写もやった。
これは自分だけかも知れないが、マスターが電池の無くなりかけたポラロイドに手を当ててバッテリーを回復させていたのに内心笑ってしまった。

ギャラリーのある人を指名して、適当に選んだトランプの数字と模様を覚えてもらう。
それからマスターがその人をポラロイドでパシャリと一枚。

数分すると、ボーっとその人の顔が出てきたが、頭の辺りにそのトランプの絵柄と少女の顔が小さく一緒に写っていた。

その人が覚えたイメージって脳裏にこういう風に映るんだなと。これはとても興味深かった。
因みに少女顔は心霊写真ではなく、その人の知り合いとか関係なく、潜在的に印象に残った物がよく一緒に写ったりするらしい。
写された当人が言うには、妹さんの幼少期ではないか?ということらしかった。

理論とイメージは違う物のようだが、マスターはその両方をバランスよく持っているのかなと思うのが、店内のあちこちに置いてある折り紙だ。
誰かの似顔折だったり、動物だったり、平面的な物もあれば立体的な物もある。
単に紙飛行機や鶴を折るのとはわけが違う。
高度に数学的な緻密さを感じさせる物ばかりだ。
全てマスターが自分で考えて折ったのだそうだ。
それらの折りの角度もちゃんと数式で書くことが出来るという。

円周率もその場で100桁をスラスラ言っていた。
3.141592653598793238462643383279....
自分も前に円周率の数字に興味を持っていて、一時頑張ろうとここまでは覚えていたのでなるほど合ってると思えたが、これ以上はこっちが解らないから、合っているのかも解らないわけだが・・・・

マスターの予言の一つに、ノストラダムスの予言の1999年の地球の滅亡はないと言うのがあった。
そして、意識革命と今の学校教育について言及。
今の日本の教育は左脳優先、理論が全てといった方針で、これでは、イマジネーションばかりでなく、自然治癒能力さえも低下させてしまったと言っていた。

眉間に第三の目があり、チャクラが出る場所でもある。
頭の頂点に宇宙のエネルギーを取り入れる入り口があるという。

マスターの超能力を調べるために、いくつかの企業や大学もここを訪ねて来たらしい。
SONYにはESP研究部という部署があるらしく、様々な機器を使って超能力を画像に記録しようと試みた話は面白かった。
マスターは、おそらく生まれつきこういう能力が強かったのだろう。
それを自身で気づき、ESPカードなどを使って、訓練したことで、今のこの並外れたパワーを維持できるのかなと思った。

日本のマスコミと言うか、テレビ番組でこの手の内容を扱う事があるが、放送や記事を作っている人のセンスが無いのか、ただの安っぽいオカルトネタの扱いにしか感じられず、自分としては誠に残念に感じている。

スプーンを曲げたり、100円ライターを捻ったりする事自体が超能力なのではなく、宇宙エネルギーやチャクラなどのまだ解明されていないエネルギーを、雑念の無いイマジネーションによって、物質の組成を自在にコントロール出来る事が超能力なのだ。

まあ、超能力と言われる不思議な事が、具体的に説明できていない(一部の人にしか扱えない、一般的に出回っていない能力)ので、単なる手品のようにしか見えないし、関心の無い人たちにはどうでも良いことなのかなと。

自分としては、本来人間、あるいは生き物が持っていた能力が、理由は解らないが、退化してしまったのでは?と思っているのだが。


こうして2時間に及ぶショーは終わった。
2000円するESPカードは飛ぶように売れていた。
自分も買ったうちの一人だ。マスターのサイン入り。

店を出て、バイクに乗って走り始めてしばらくは、マスターのずば抜けた超能力の数々が頭に浮かんで消えない。

右脳・左脳かぁ。
僕は左脳で考える方なのかな。
旅の間なるべくイメージという物を意識していたつもりだったが、そんなの全く持って微々たるものだなあ。
自分は全体として左脳で考える傾向なのかな。

意識革命は絶対必要だなあ。
可能性というのは、自分自身でどうにでも変化する。
自分でダメだと思い込んでしまえばそれで可能性のの芽は育たなくなる。
前向きに考えるようにしてゆけば、自分もその周りもそのように変化してゆく。

マスターを見ていたら、少し楽になった。
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2010/1/9  21:52

四次元パーラー「あんでるせん」その2  1996〜97原付日本一周後半編

さて、長い事待った(待たされたと言った方が正しいか?)エスパーショーが始まった。

早い者順に店の開店前に整理券が配られ、早い人はカウンターのいちばん近い所で見る事ができる。
このショー自体は無料だ。
何でも信じやすい自分は、目の前で起こっているこれらの「奇跡」が単なる手品であるとは到底思えなかった。
本物の超能力だと感じていた。
こういった「不思議」を目の当たりにしたのは生まれて初めて。

千円札を手のひらで浮かすのは序の口。
まるで蝶のようにヒラヒラと宙を舞う。
マッチ棒を手のひらの上でいとも簡単に立たせる。
そのマッチ棒の先端からマスターの「気」がモヤのように視覚で確認できるらしいが、角度が悪くて見れなかった。

この人のパワーは半端ではない。

豆電球を宙に浮かせながら光らせたり、ニクロム線を持っただけで赤く熱してしまう。

500円玉を手のひらに載せて、4cm位の木の板で、まるでせんべいでも割るかのように簡単に割ってしまう。
しかもその割れた硬貨はすぐに手で元の姿に戻ってしまった。

100円玉にたばこを通してしまう。
引き抜くと穴が開いている。
タバコに金属の分子が溶け込んでいるらしい。

再びその穴に入れて、引き抜くと、元の100円玉だ。

・・・硬貨のタバコ通しはマジックのネタでも存在するので、半信半疑だが・・・

1000円札も同じようにボールペンでプスリと通す。
これはだれでもできる。
しかし、違うのは、通したまま札の中を移動してしまうのだ。
引き抜けば穴は無い。

50円硬貨を1000円札に刺す事もやった。

色が全くバラけたルービックキューブをぽんと上に放り投げたら、瞬時に全ての面の色が揃ってしまった。

コカコーラの瓶にどう見ても瓶の口より大きい500円硬貨を入れてまた出したり、ガラス瓶の中のボルトとナットを触らずに緩めたり、まあ、ただただ驚くばかりだった。
でもこれも、今はテーブルマジックでやる人けっこういるんだよなあ・・・

続く・・・
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2010/1/1  23:01

ハウステンボスと四次元パーラー「あんでるせん」その1  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月29日
朝5:30に目が覚め、昨日炊いたご飯の残りで朝食。
この後、ハウステンボスに向かった。

妹尾河童氏の本にここの事が書かれていて、ぜひ一目見ておきたいと思ったのだった。

塀の外からドム・トールンが聳え立っているのが見える。
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それを見ただけでも、単なるテーマパークとは違い、力の入った施設なのかなと思った。
入ってみようと受付まで行ったが、入場4200円!!もかかるので今回はあきらめた。

そしてここを離れ、超能力喫茶「あんでるせん」へ向かう。
ここは川棚と言う所にある。
天気が心配だったのでやめようかとも思ったが結局行く事にした。
10:40に店は開く。
すでに店の前には超能力を見ようと数十人が待っていた。

シャッターが開き、店に入ったは良いが、ここからが長かった。
注文はサンドイッチ。600円。

店自体は1970年代テイストの、ちょっと薄汚れた何の変哲もない喫茶店。
もし、マスターが超能力を持っていなかったら、とっくに潰れていたのでは?(失礼)と思えるほどのしけた店構え。

しかし、その中で、たくさん飾られた、不思議な折り紙が目に付いた。

注文のサンドイッチが来るのに1時間。
不機嫌そうに店を歩き回る奥さんらしき女性が印象的。
一度に20数名が押しかけてきたわけだから大変なのは分かるが・・・。

ひたすら「超能力ショー」を待っていた。

その待ち時間が長かった。

ああ、今日はそんなに動けないなと思った。

サンドイッチなどとっくに食べ尽くし、あまりに退屈で仕方無いので店内を見回すと、折り紙の他にもも不思議な物がゴロゴロ。

・・・待つ事3時間・・・
もうほとんど待っているだけで疲れてしまった。

ようやくエスパーショーは始まった。

続く
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2009/10/8  9:32


1997年5月28日

長崎へ入った。
僕の中から建築設計の方面へ進む意欲がかなり薄れてきたせいか、建築そのものの見方も以前より熱が入らなくなった。
金の無い旅のせいなのか?

写真も1枚1枚大事に撮らなくてはいけない。
フィルムを買う金さえないのだ。
でも金が無いからと言って心まで貧しくなる事は全く無い。


グラバー園へ。
小・中・高校の修学旅行生がわんさかといた。
軍服を着て、馬鹿デカいウエストバックをかかえ、ボロボロのハンチング帽をかぶった僕の姿は、彼らには異様に映っているかもしれない。

グラバー邸、リンガー邸、オルト邸と見た。
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さっと流す程度だ。
ここから長崎市街や長崎港が一面に見渡せて、すばらしい景勝地だった。

戦艦「武蔵」はここで生まれた。
港はとても狭く、進水した時に巨大な船体が一気に滑り出した為に、湾の水位が一時的に急増して、一部の家屋が床上浸水したというのもありうるなと思った。

次に大浦天主堂。
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現在も使われている教会のため、建物内部の撮影は禁止。
木造のリブヴォールトと、ゴシックの尖塔祭壇が美しかった。
大きさは横浜山手教会くらいだろうか。
記念にキーホルダーを買い、原爆の平和記念公園へ向かう。

市内には路面電車が走っていた。
そうそう、オランダ坂も行ったが、とんでもない急勾配で、20%の傾斜率だった。
1速でエンジンをうならせながら、石畳の坂をゴツゴツと上った。

長崎は丘の街だと思った。
いたるところ坂だらけ。

記念公園にもやはり学生団体がいた。
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僕の見た平和記念像の印象は、ふやけた美しくない造形物だなあという事だった。
何かの式典だったらしく、この像の前で、中学生らしき集団はリコーダーでパッヘルべるの「カノン」、そして合唱曲数曲。をやっている。いや、やらされていると言ったほうが良いのか?

ここにいると、自分は平和は願っているが、はたして心の底から平和とは何かを理解しているのか?と言われれば自信が無い。
原爆で被爆した人達の気持ちを想像はできても全てをリアリティをもって理解できるのかは難しい。

しかし、これだけは言える。
核兵器はとにかく使ってほしくない。
開発も生産もしてほしくない。

さて、次は浦上天主堂へ。
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二つの塔が建つ大きな聖堂だった。
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この時は、ここの信者さんの葬儀があるらしく、さらっとしか巡ることができなかった。
聖堂の中は、青い光で満たされていた。
ここにはオルガンがあるはずだが、エントランスの上なので全く見えなかった。

外には、原爆で吹き飛ばされた建物の一部が残されていた。
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キリスト教国のアメリカが、同じ信者のパイロットが操縦するB-29で、同志キリストの信者のいる長崎に原爆を落とすというのが、何とも無情に感じられた。

せっかく長崎に来たから、ちゃんぽんを食べた。
あとはひたすら走った。
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2009/9/17  21:51

雲仙と島原へ  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月27日

飛行機公園みたいな所があり、セスナの実機が展示してあったので、見たくなった。
入場料100円を払う。

つい昨日まで飛んでいたのでは?と思えるほど生々しい展示機だった。
操縦桿やフットペダル、シートも動く。エルロンは軽く動いた。
エレベーターとラダー(フットペダル)はけっこうバネの力が強かった。
こんなに重いものなのだとは知らなかった。

この展示機はセスナT210型というらしい。
エンジン310馬力
最大速度378km(204ノット)
航続距離1728km時間にして6.5時間
パイロット1名、他5名計6名搭乗可能。

乗ってみた感触は、まさに空飛ぶ乗用車と言った感じ。
かなりの高級品と見た。

引き込み脚付きで、日本には10機ほど輸入されたそうだが、その中の一機がこれだとか。
窓はアクリル板だったがしっかりしているものだ。
車輪のブレーキはディスク式。
全長8.59m 幅11.2m 高さ2.95m 重さ1007kg

14:00
雲仙町 水無川。
土石流で埋まった家々が今もそのまま残る。
道からちょっと眺めただけでは、家が建っているだけにしか見えなかった。
バイクを止め、よく見てみると、一階部分が土砂で埋まり、二階部分は損傷も少なく、
今も人が住んでいるようにさえ見える。
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この辺りを歩いていると、地面は石ころと土砂だらけ、年数も経ってきているのでだいぶ固まっている。
掘り起こすのは困難だろう。
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流域周辺は活発に復旧工事が行われているが、それはあくまで道路など国や行政がらみの部分。
廃屋になった家の持ち主はどうなっているのだろう?
そして埋まったままの廃屋は今後どうなっていくのだろう?

それらを見下ろすかのように、普賢岳は堂々とした姿を見せている。

15:00
原城跡。
天草四郎時貞、他キリシタンが島原の乱の時に立てこもった城の跡だ。
辺りは草ぼうぼうで、ちょうど草刈をしている所だった。

本丸跡は意外と狭かった。
ここに、僅か14歳の敬虔なキリシタンの少年をたてて、2万7千人が88日間も立てこもっていたとは、何と言う団結力の強さか。

天草四郎の像の前で。
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天草四郎の墓(とされている墓石)
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2009/8/22  16:50

阿蘇のカルデラの町へ  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月25日

昨日にも増して寒かった。
足先が特に冷えた。
フライは結露でビッショリ。

旅をしていて、片時も頭を離れないのが金の事だ。
本当にヤバイ。

必要な物以外にはとにかく買わない。
しかし、土産や記念になる物も買えないと言うのはつらい。

とりあえず阿蘇の方へ進む。
阿蘇スカイラインは原付は100円。

途中、駐車場で火ノ神公園でキャンパーおじさんからもらったインスタントラーメンを作って食べた。
本当は菊地渓谷でキャンプしようと思っていたのだが、人があまりに多いし、値段も高そうだったのでやめた。

阿蘇スカイラインに入って、パッと展望が開けたらさすがに有名になるだけの事はあると思った。
カルデラの眺めは雄大だった。

学生の社会科の授業で、カルデラに人が住んでいると聞いて、火山に人が住むとは、なんて危険なんだと思った事があったけな。

しかし、その規模は半端ではなかった。
実に広大なカルデラだった。

そして大観峰に寄る。
人も多いがバイクもすごかった。
ズラリとバイクが並び、黒い革のつなぎを着た恐そうな人達が群れを成していた。
これを見て、自分はライダーではないんだなと思った。

山頂ではグライダーが乱舞していた。
ここで飛ばしたら楽しいだろうなあ。
自分もラジコンを飛ばしたくなる。

大観峰を後にして途中公衆浴場へ寄った。

川沿いを走っていたら、手頃な広さの河原があったので、そこにテントを張る事にした。

バイクを止めて、ふと後輪を見てギョッとした。
スポークが2本折れていた。

後輪を空回ししてみたが、リムのゆがみは感じなかった。
まだなんとか走れそうだが、早めに手を打たなくてはいけないな。

荷物が多すぎるのと、長距離を走り続けいているのとで、負担がかかったのだろう。
ベンリイ号にはすまない気持ちだ。

翌日、重量軽減のため、小包で不用品を家に送った。6.3kgあった。

佐賀市に入ってからカメラの予備フィルムが残り少なくなっている事に気付く。
今回の旅ではコダクローム64を使っている。
歴史もあるし、色の保存性が優れていると評判だったので。
貴重な記録にはこれかなと。

市内に、まだオープンしたてらしいカメラのキタムラがあった。
品揃えも豊富でもちろんコダクローム64もあった。
比較的安く補充できたので良かった。

道路標識に「長崎90km」とあった。
もうすぐだ。
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2009/8/22  6:55

熊本へ そして異変  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月24日

寒くて目が覚めた。
テントのフライシートの内側に結露。

今だ沖縄の感覚が残っていて、結露を見てあ、そうか本土だったんだと思い直す。
沖縄ではフライに結露するなんてことが無いからだ。

AM6:00。
天気予報では昼頃雨が降り、すぐにやむらしい。
ならば早めに出発して、次へ進もうと思い、撤収する。

本土はまだ少し寒い。
いや、沖縄が暖かいのか。
長袖とセーターを送り返さなくて良かった。

AM7:00頃には撤収も終わり出発。
目指すは熊本。
3号線を走っていたら、突然「バキッ!」と不気味な音がした。

「ん?なんだなんだ?」

慌ててバイクを道路の脇に寄せて、点検。

しかし、この時はどこがダメになったのか全く分らなかった。
走りに支障は無かったから、首をかしげながらも、そのまま順調に走った。

昼頃、熊本市街に入ってウロウロしていたら、天気予報通り、かなりの雨降りに。
幸い屋根があったので、そこに逃げ、濡れる事はなかった。
強い降りだが、こういうのは通り雨である事が多い。
やむまでしばらく雨宿りを決め込んだ。

雨がやみ、せっかくだからと熊本城を見る事に。
しかし、ここも都会。
人と、車と、信号の多さに疲れてしまった。

やっとの思いで城に到着。
中には入らず、外から天守閣の見える所で記念写真。
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とっとと都会は離れて、人の少ない山奥に行きたくなった。
金峰山へ行く坂道を振り返ると、熊本市街が見渡せる。
モヤがかかって見にくかったが、大都会だった。

天気はすっかり回復して、さっきの雨がウソのようだ。
今日の宿泊地に決めた、玉名市の丸山キャンプ場へ一路。

あちこちに温泉があり、けっこう助かる。
バイクのエンジンを唸らせながら、急坂を登り、16:30頃到着。
しかし、駐車場からテントサイトまでけっこう離れていたので(200mくらい)、そこでのテント設営はあきらめ、近くの空き地に張る事にした。
高度は約290m。

夕食。
ジャガイモをスライスしたのを油で炒め、波照間で買った小粒餅があったので、焼いて食べた。
犬が二匹、つがいらしい。
クンクン言いながら寄ってきたので、餅を2個ずつあげた。

日増しに疲れが酷くなる。
早めに寝よう。
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2009/8/19  22:57

あるキャンパーさんと  1996〜97原付日本一周後半編

1997年5月23日

朝はけっこう冷え込む。
割と良く眠れた。
前日から駐車場に止まっていたあやしい2トントラック。
東京ナンバーだし、フェリー待ちの運送屋にしてはどうもおかしいと思っていたら、キャンパーの車だった。

自営業で、運送屋をしていたが、辞めて、その車で旅をしているとのことだった。
幌の中を見させてもらったら、中にはホンダのオフロードバイクのXRバハが入っていた。

幌のおかげで雨風は十分に防げる。
これは一種のキャンピングカーには違いないと思った。

おじさんはとても穏やかでいい人だった。
自分が貧乏旅していると察してか、色々物をくれた。
インスタントラーメンや調味料など食糧援助は何よりもありがたかった。

この人も15年前(1997年当時)にオフ車で日本一周した人だった。
当時35歳。
今は50歳だ。元気だなと思った。
でもダートを走る時は体にこたえるらしい。
歳ってやっぱあるんだなと思った。

お返しする物がなくて困っていたら
「自分にはいいから、次にだれか困った人がいたら、その人を助けてあげなさい。それが私への恩返しですよ。」
と言った。
心にジーンときた。
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こうしてこの人と別れて、出発した。

さて、出水(いずみ)と言う所に特攻記念公園というのがあって、ちょっと立ち寄った。
かつて海軍の陸攻基地があったらしい。
公園は基地の入り口だった所らしく、衛兵所があったり、コンクリートの防空壕が残っていた。
壕は自由に入れる。しっかりした作りだ。
その中には、撃墜された1式陸攻の外板の一部が展示されていた。
壕の小山の上には、石碑と海中から引き上げられた航空エンジンとプロペラが2基づつ置かれていた。
ここからは、1式陸攻隊が特攻に出撃、約200名が戦死した。

ここは今は特攻よりも鶴の飛来地として有名らしく、あちこちに鶴の像が設置されていた。

時計を見たら17:00を回っていた。
陽はまだ高かったが、そろそろ宿泊場所を探さなくては。

途中水俣病で有名な水俣市に入った。
この公害病の発生源である化学工場の「チッソ」も堂々と建っていた。
実際に目の前で見るまで、「チッソ」会社がこんな大規模な所だったとは想像をはるかに超えていた。
いかにも化学工場らしく、パイプがごちゃごちゃと入り組んだ塔が幾つも立ち、毒々しいタンク類が広い敷地の中に並んでいた。

ここを通り過ぎるとすぐに街の景色から山に変わっていた。
段々になった水田の石垣が、まるで城のそれのように、キッチリと組まれていた。

さて、川はあるのだが、テントを張れる適当な広さのある河原がなかなか無い。
ようやくテントがギリギリ張れるスペースを見つけそこで今日は終わる。

沖縄から九州に上陸して3日目。
だいぶ疲れてきた。
マットの下の大きな石が背中に当たるが、疲れの方が多くていつの間にか眠ってしまった。
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