疲れが出て、起きたのは7時30分過ぎ。台湾の朝は早い。時差を考えても早い。もうこの時間ともなるとかなり日が昇っている。日の出るイキオイで昇っている。
おかゆその他による自助餐を食べる。おかゆのトッピングには海苔のつくだ煮や鰹節を選んでしまう。まだまだだな。なぜかこういうのを日本では「バイキング料理」と言うが、船の上で食べるには向かないだろう。あとパンやバターを持って帰るおばちゃんもここにはいない。コーヒーはミルクがいやでも一緒に出てくるシステム。基本的に台湾は甘いモノが多い。長崎も甘い物は多かったがここまで「油断は禁物」状態ではなかった。
表通りは昨夜の喧騒がウソのようだ。
ホテルのあたりは紅毛城や大天后宮、祝天武廟などがあり、観光には都合がいいのが判るが、今回は横目で見ながら台南駅へ。
台南駅の雰囲気は一言で言えば「懐かしい」だ。沿線の誰もが長距離移動には鉄道を使った国鉄時代。壁一面の時刻表、窓口に並ぶ人々、時間まで開かない長距離の改札、もう20年も前の事を思い出す。
自動券売機をみるとここでは「普快車」のボタンがある。もう走っていない、「区間車」より安い列車だ。実はそれに乗る予定でもいたのだが、ダイヤ改正もあって今回は無理で、次回、台東の方を目指す時に乗る事にしよう。
新営まで区間車。丁度特急や急行(正確には対号快車)が無い時間でいたしかたないが、ちょっと混雑。今日は「烏樹林」に行く事が目的である。あとはのんびり移動しよう。通勤電車の区間車は駅の様子が見られるのはいいが、あまり眺めも良くない。シートはビニールのようである。日本でも見られた貨車移動機があちこちにいるのが判る。運転席の後に立っていたが(席が空くまでOKと言われたので)、途中で車内が空いた時に座らされた。実はこの電車、ホーム側に乗務員用のドアが無く、また客用ドア上のボタン操作でドアを開けているので私はとてつもなく邪魔なのだ。
さて新営到着。ここまでの経験で、駅に降りた外国人らしき人物にはタクシーの運チャンが声をかけてくるきまりになっている事と、タクシーの運チャンは英語ペラペラ、時には日本語を話せるのを知っていたので、「烏樹林」の地図をプリントアウトさせたのを出しておく。「アイ ウォント トゥ ゴー トゥ ウースーリン」と言うと、「オーケイ オーケイ」との事。値段を聞くと(台湾南部のタクシーには高雄あたりを除いてメーターは無い。ついでに言うとドアも手で開ける)「リャンパー(イ) ウー」という。「リャンパー(イ)」は200、「ウー」は5だから205元かというとそうではなく、「ニホンゴデ ニジュウゴノ ジュウ(倍)」で250元という話だった。車で20分位の距離、300元ならまあ妥当のようで、北京語や台湾語に堪能なら値切り交渉を始める所だが、それで行ってもらう。
最初はバイパスのような所を走る。ビンロウ売りの屋台も出ていて長距離トラックも通る国道のようだった。そこから畑の方にそれていくと林が見える。「ザッツ ウースーリン」。目指す烏樹林はホントに林だった。お金を払って降りようとすると、何かを聞いてくる。だいたいタクシーを降りるときには帰りの時刻を聞くと思い、「午後1時」と書いた紙を渡すと「ここではこうだ」と「1(黒占)」(イーティエン)と教えてくれる。ホントの判ってくれたかどうかちょっと疑問だったが。
烏樹林は昔の製糖工場の跡で、原料輸送に使われた車両が保存されている。丁度SLが発車するところだったので撮影できそうな踏切を探して待ち構える。暑いのであまり煙は出ない。団体の小学生から「ウォー」と手を振られたので振り返す。
その後戻って保存されている車両を撮る。中には阿里山の森林鉄道の客車もあった。駅舎は日本時代のものであり、車両の中にも日本製のものがあってそれが走るのを期待していた。しかし樹木はまぎれもなく熱帯のそれであった。
あたりにはなぜか日本の演歌がかかっている。宮史郎「おんなの道」とか細川たかし「浪花節だよ人生は」とか。テレサ・テンが流れた時はさすがに複雑な気持ちになった。「あなたの色に染められ」とはこの光景を言うのでは無いだろうか。「今はあなたしか愛せない」。しかし日本は大陸と国交を回復、国家としては断交し経済レベルでの繋がりが続いている。
うろうろしているうちに昼飯時で、パイコー飯を食べる事にした。メニューには「弁当」とあるが、日本語読みでは通じない。発音は「ビェンタン」である。これも日本統治の置き土産であった。霧を吹いて涼しくする装置がある。そんなに涼しくもならないが。
さて、帰りだが1(黒占)になっても2(黒占)近くになってもタクシーは来ない。来られなくなったかと大通りに出る事にした。バスも判り難いがあったはずである。そこで車に乗った夫婦に声をかけられた。「どうしたんだ、どこに行くんだ」みたいな感じである。英語で「アイム ゴーイング トゥ シンイン ステイション」と言ってみたが「シンイン(新営)」という部分だけが通じたようである。「新営なら通るから乗っていけ」みたいな感じになった。
かなり不安だったが、事前に「このあたりの人はこういう感じだ」と聞いていたので乗せてもらう事にする。日本語はもちろんだが英語も通じない。うまく言えないが会話になっていない会話が車内で続く。新営の町に入った時「町ならまっすぐ、駅は左、どっちだ?」というような事になったので「フォチャー」(火車=列車)と左を指した。
お礼にと昨日空港で買っていたキャラメルを出すが、「プレゼントはいらない、持っていけ」という。「謝謝、サンキュー」と繰り返しお礼を述べる。「お前にこそサンキューだ」と言ってくれる。
新営からは台北へ。さすがに距離があるので区間車という訳にはいかない。以前ならここで「普快車」、「冷気平快車」に乗るチャンスだったがもうない。しかも優等列車は新幹線以外全て対号座(指定席)である。そしてこの駅にはそれ用の自動券売機は無い。ええい、筆談だ! 「今天 14:45 (草冠に呂)光号 全票一張」と書いて窓口に出す。「メイヨウ(没有)」すなわち、「ありません」との事。どうも台中で一杯になるようだ。書きなおして15:00の自強号なら台北までOKのようだった。
ちょっと時間があるので水を買うと、どっと汗が出てきた。新営の駅も以前の日本の駅に似ている。ホームには荷物を運ぶ自転車もあった。
やってきたのはいわゆるPP自強号、韓国製でセマウル号のような列車だった。この自強というのも他の列車名と同じくスローガンであり、世界から孤立しても生きていくというような意味らしい。車内は日本で言うグリーン車の雰囲気。切符は二枚もらったが一枚は前のシートの後ろに入れる。以前聞いていた「名古屋方式」である。
座席の番号のつけ方が変わっている。これは窓際から販売していく為だろう。
途中嘉義を通るが、さすがに阿里山鉄道の列車は見えない。ただ、駅の北側で道路沿いに走る様子が判り、撮影の参考になる。ニ水では事業用になっている古い客車が見えた。昨日通った彰化を過ぎるとこの列車は海線を走る。龍井と大(月土)の間では(おそらく)水泥(セメント)工場の専用線が見える。こんな所には私有の調車機・調動機(日本で言えば「専用線の機関車」)がいる。いつかああいうのも撮りたいものだ。
海線は開けたところを通る。沿線には廟や派手な飾りをつけたトラック、何かを売る屋台が時折見える。どんな田舎でもその地域に合った大きさの廟があるものだ。これが台中を通る山線と一緒になると都会的な雰囲気になってくる。
新竹あたりでは復興号も見られた。また、富岡の北側には5t移動機もいた。
やがて列車は地下線に入り、台北である。さすがに大きい駅だ。日本語のアナウンスも聞いた。
ホテルまではMRTを利用する。コインを券売機に入れるとプラスチック製の「トークン」が出てくる。これを自動改札に当てると通過できる仕組みである。どうもICが組みこまれているようだが、「トークン」でやるか? とも思う。
台北ではホームドアがある。民権西路まで乗る。シンガポールや香港の地下鉄に似ている。民権西路にはホームドアはない。車両によっては座席がないのもあったな。
ホテルまでの間に雨が降って来る。魯肉飯の店に入ったら、ファーストフードみたいだった。そうだ、この先には「吉野家」もある。ケンタッキーもある。台湾といえば夜市という印象だったが、変わっていくところもあるのかなと思った。
ホテルは日系で、日本食の店も併設されていた。えらく立派で入りづらいが。

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