以前、新聞に今の子供の何%だかが『生まれ変わり』を信じているという話が出ていた。それはいい。しかし、新聞の担当者がそれを『憂慮している』のがどうにも納得できなかった。
『生まれ変わり』を信じる、信じないは個人の主観、いわゆる『思想信条の自由』である。『生まれ変わり』がまったく信じられていない、そこに何も根っこがないものならば『生まれ変わったつもりでがんばる』という言葉はジョークでしかないし、そもそもダライラマとかはどうなるんだという話にもなる。『生まれ変わりを信じる』は文化でもあるわけだ。その事を新聞の記者は理解していただろうか?
科学的に見れば『生まれ変わりが有る』には確たる証拠は無い。『生まれ変わりが無い』証拠を得るのが困難である以上、『生まれ変わりが有る』確たる証拠が出てくるまでは『無い』として扱うのは科学の世界では当たり前だし、仕方の無い事である。安易に証拠も無しに『信じる』のは危険な場合もある。
しかしその事と『生まれ変わりを信じるのは間違っている』というのとは違う。バリバリの科学者だって初詣に行ったり交通安全のお守りを買ったりする。『科学』と『文化』は両立できるのだ。そもそもキリスト教徒全てがホントにイエスが水の上を歩いたなんて思っているだろうか? ものの例えだろうと考えたり、神格化の為の挿話と考えたりしている人もいるのではないだろうか。
子供が『生まれ変わりが有った方がいいな』と思う背景には、考え方が違う人間同士がすぐに憎しみ合い、殺し合いをする世の中に幻滅しているという事も考えられないだろうか?
人間、一人一人考え方は違う、いや、同じな方がおかしい。同じ考えで結束した人間同士が起こすのが戦争やテロ活動だろう。相手の考えに理解できない部分や賛同できない部分があってもそれはそれで当たり前だ。
私は『生まれ変わり』を信じていない。しかし『生まれ変わりを信じている人』を認める心の余裕はある。決してその考えをやめるように『説得』させたりはしないし、また、その人に言われて自分の考えを変えようとは思わない。

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